中高年サラリーマンのための
「松下村塾」を主宰する
覚醒ナビゲーター・宮成です。
本日は、
前回までの 大富豪の教えから
一旦外れて 寄付の話を致します。
自慢話はしたくはないのですが、
私は台湾に地震被災の義援金を
わずかですが1万円寄付しました。
(2018年3月3日)
そのことを今回、
あえて書かせていただきます。
【1.地震の概要】
2018年2月6日23時50分
(日本時間2月7日0時50分)に
台湾の花蓮県で発生した地震は
規模がマグニチュード6.0。
花蓮市および宜蘭県南澳で
震度7を記録し、
深刻な被災状況が
報告されています。
台湾政府は救災活動を行っています。
「花蓮県災害即応センター」が発表した
2月27日7時(日本時間8時)の
最新データによると、死者17名、
負傷者295名となっています。
【2.寄付した理由】
2011年3月、
日本が東日本大震災で被災した時、
台湾は何と総額で
200億円もの寄付を
義援金として
日本に送ってくれました。
まずは、その恩返しです。
台湾の経済規模は
2016年の統計でみると
GDP(国内総生産)では
日本の約10%程度です。
経済規模で
日本の10分の1の国が、
200億円もの義援金を出すことは
同じことを日本が行う場合、
2000億円もの義援金を
拠出するのと同じぐらい、
巨額の援助をしてくれた
ことを意味します。
これはすごいことです。
この恩に
報いたいと思ったからです。
【3.台湾が巨額の義援金を出してくれた理由】
台湾は親日国です。
その理由は以下の通りです。
かつて戦前に
日本が台湾を統治した時代、
日本は巨額の資金と、
優秀な人材を惜しみなく投入し、
台湾のインフラと教育を整備し
その近代化を大きく進めました。
(これほどまでに
良心的な植民地経営は・・・
台湾を支配したことがある
英国、オランダ、中国は
一切やっていません。
彼らは収奪と搾取に専念しました。)
実は、
日本がここまで
やってくれたことが
戦後の台湾の経済発展や、
現在、豊かに暮らしている
源泉になっていることを
多くの台湾人は知っていて、
今も恩義に感じているから、
なのです。
(日本は、中国東北地方や
朝鮮半島でも同じように
インフラ整備と教育の充実を
行っていました。 韓国が
戦後、経済発展できたのも
そうした基礎があったからです。
が、中国や韓国、北朝鮮は
そうした事実には一切目を
そむけてしまっています。)
だからこそ、
東日本大震災があった時も
歴史的な恩義を感じる
日本を助けたいと思い、
台湾の人々はこぞって
日本に
義援金を出してくれたのです。
そうでなければ
他国に類を見ない
200億円という
巨額の義援金には
ならなかったはずです。
【4.現代の日本人が知らない、台湾での日本の功績】
日本は日清戦争(1894~95)で
勝利し、台湾を領有します。
そして統治するにあたり
「台湾総督府」を設置します。
そのトップには、歴代
明治時代を大きく動かす
大人物が送り込まれます。
後に首相になった桂太郎や、
(第2代総督)
日露戦争で英雄となった
乃木希典(第3代総督)や、
児玉源太郎(第4代総督)などです。
児玉は当塾の記事にも
過去、連載しましたが
日露戦争の勝利の立役者です。
彼は、
総督時代にも手腕を発揮します。
それは、
当時の日本の国家予算が
2億2千万円の時代に、
台湾のインフラと教育整備のために
1899年に、なんと2割近い
4千万円もの予算を
台湾のために獲得します。
(この5年後に日露戦争となります。)
(児玉源太郎の写真です。)
今、日本の国家予算が
約100兆円ですが
うち約18兆円の巨額の資金を
植民地のためだけに投入する
感覚ですね。すごいことです。
こんな植民地経営をやったのは
世界を見ても、わが国だけです。
欧米諸国はこんな大金は投入せず
現地の資源や富を奪うだけでした。
さらには 後藤新平も赴任します。
後藤は、児玉の右腕として
「台湾総督府民生長官」
の役職で招かれました。
後藤新平は
台湾の主要な道路を整備し、
南北縦貫鉄道を作り、
高雄、基隆などの港湾を整備します。
上下水道も整備し、次に
日本国内から100名以上の
医師を招き入れます。
結果、
衛生状態が劇的によくなります。
それまで世界有数の
疫病発生地だった台湾から
ペストやマラリアを撲滅しました。
(日本は朝鮮半島でも同じように
医療・衛生水準を向上する措置や
各種インフラ整備を行いました。
その結果、朝鮮半島では
日本が統治するまでは
伝染病や疫病が多発して
なかなか人口が増えない状態
だったのが、
日本が統治した34年間で
人口が倍増しているのです。)
さらには
イギリスがインドを経由して
売りつけた結果、
中国で蔓延し
台湾にも広がっていた
アヘン中毒患者の
問題がありましたが、
これにも上手に対応します。
結果、アヘン患者が激減します。
この功績から彼は
「台湾近代化の父」と
台湾国内で言われています。
さらには、
5千円札の肖像になっている
新渡戸稲造も
台湾で活躍します。
後藤進平は、
新渡戸稲造を台湾総督府の
「技師」として登用します。
新渡戸は、 サトウキビの
品種改良を行います。
そのうえで、台湾に「製糖業」を
殖産興業すべく全力を投入します。
その結果、台湾の砂糖生産量は
1900年が3万トンだったのですが
5年後には2倍の6万トンになります。
そして、
第二次世界大戦中は何と
160万トンになるまで成長しました。
この砂糖製造業は
戦後も1960年代まで
台湾経済の発展を
助けることになるのです。
さらに第7代総督には、
日露戦争の時に児玉の下で働き、
後の ロシア革命につながる
共産主義者らを支援し、
ロシア帝国に潜伏、
かつ攪乱・活動していた
明石元二郎が赴任します。
(明石の日露戦争での功績は
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世をして
「明石一人で、奉天で陸軍を率いる
大山巌以下20万の大軍に匹敵する」
と言わしめたほどの大人物です。)
レーニンが、
ロシア革命を起こして
帝政ロシアをつぶせたのは、
明石元二郎がいたから、
とも言われるほどです。
明石は台湾で
電力事業を完成させ、
教育改革、司法改革にも成果をあげ、
後藤新平に
まさるともおとらない
台湾発展の基礎を作り上げました。
例えば、教育改革では、
支配されている台湾人と、
支配者側の日本人の生徒が
同じ学校で
机を並べるようにしました。
この改革が、当時
どれほどすごい改革だったか
おわかりでしょうか?
帝国主義時代最盛期の当時、
植民地の被支配民を抑圧し、
搾取することしか考えない
欧米列強が支配する地域では
絶対にありえない光景でした。
師範学校、商業学校、工業学校・・・
何ら日本と変わらない
ハイレベルな教育が台湾全土で
行われていくのです。
首都の台北にはこの時代に
日本によって
台北帝国大学が作られます。
この台北帝国大学こそ、
現在の台湾大学であり、
台湾の最高学府の
一つとなっています。
そして、
台湾人の教育の中枢を
今現在も担って、有能な
人材を輩出しているのです。
(ちなみに、 韓国内学府の
最高峰・ソウル大学も
日本が統治していた時代に
日本が作ったもので
「京城(ソウル)帝国大学」
が、それです。
韓国人の多くは、
こうした日本が
朝鮮のために貢献した事実を
正しく知らされていないと
私は思います。)
このような数々の改革が
成果をあげて台湾は
豊かになっていきました。
その結果、 明石は
台湾人に大変慕われます。
明石もよほど台湾が
好きだったのでしょう。
「最期、自分が死んだら
必ず台湾に葬るように」と
生前、遺言を残しました。
彼は後年、1919年に
故郷の福岡県で死亡しますが、
遺体は遺言に従って
台湾に運ばれ埋葬されます。
そして、
明石を敬愛してやまない
地元の台湾人たちによって
「軍人中、皇族を除き明石のような
立派な墓を持った者はいない」
と言われるほど
壮麗な墓が作られました。
このように日本は
台湾に第1級の人物を
続々と送り込んで 、かつ、
国家予算のかなりの部分を
台湾に注ぎ込みました。
台湾から資源や金を
収奪するようなことはせずに
むしろ、平等に扱い
「自力発展」させることに
力を入れたのです。
その結果、
日本が台湾を領有して
わずか10年で、
台湾では日本国内からの
経済援助を必要としない
自給自足が実現しました。
そして、その恩恵は
現代の台湾にも脈々と
息づいているのです。
【5.台湾の教科書に掲載される日本人・八田與一】
もう一人、 日本では
あまり知られていませんが
台湾では非常に有名な
日本人を紹介します。
「八田與一」(はったよいち)
という日本人です。
不毛な大地だった
台湾南部の平野を
肥沃な一大穀倉地帯に変え、
台湾の人々を飢えから救い、
豊かな生活をもたらした功績で
台湾の学校の教科書には
必ず掲載されている日本人です。
2018年に
日本の某民放の
TV番組で彼の功績が
紹介されたものを
私は見ました。
それによると、
当時の台湾南部の平野は
不毛地帯で、
洪水と干ばつを繰り返して
いたとのことです。
そして、台湾の人々は
常に飢えに悩まされており、
栄養状態も
よくありませんでした。
この土地を豊かで
穀物がとれるようにし、
台湾の人々を飢えから
救うために
八田は農業改革の一環として
烏山頭という場所に
巨大なダムを建設し、
大規模な灌漑施設を作ることを
日本政府に提案します。
政府はこれを承認し、
彼をそのプロジェクトの責任者
として台湾に赴任させます。
彼は日本から家族全員を
烏山頭に呼び寄せ、
ダム建設にすべてをかける
覚悟で臨みました。
八田は、ダム建設のために
現地で働く台湾人に対して
統治する側の日本人だからとはいえ、
高圧的な態度をとることは
決してありませんでした。
(欧米各国の植民地では
現地人をすべて奴隷とし
酷い待遇・扱いしたのとは
全く違いました。)
むしろ、現地労働者には
日本人と変わらぬ処遇を用意し、
労働環境を改善していきました。
そして、現地の人達と
共に汗をかき、
共に苦労を分かち合って
難工事を着々と進めていくのです。
その結果、彼も
明石元二郎同様、大変慕われます。
着工から10年後(1930年)に
遂に烏山頭ダムが完成します。
完成したこのダムは
当時東洋一の規模を誇り、
大地を網の目のように走る
灌漑水路の長さは
16,000キロに及びました。
台湾南部の嘉南平野は
みるみる緑豊かな大地に
変わっていき、
多くの台湾人を
飢えの苦しみから
解放したのです。
(民放のTV番組はここまで
の内容でした。)
このダムは
90年近く経過した現代でも
現役のダムとして台湾を
豊かに潤し続けています。
しかしながら、この後
八田には悲劇が襲います。
台湾を豊かにした
功績を買われた八田は、
昭和17年(1942年)、
日本が大東亜戦争(太平洋戦争)で
アメリカから奪い取った
フィリピンに行くよう
政府から命じられます。
今度はフィリピンに
綿作ができるようにするための
灌漑調査を行うためでした。
しかしながら、
八田の乗っていた輸送船は
長崎県の五島列島沖を航行中、
敵のアメリカ軍の潜水艦から
魚雷攻撃を受け撃沈されます。
残念ながら、八田は殉職します。
その3年後、日本は敗戦を迎えます。
台湾の烏山頭ダムには、まだ
八田の家族が残っていました。
その家族には、
台湾がもう日本のものでは
なくなったとして、
内地(日本国内)に
引き上げるよう
命令が下されました。
(こうした命令は、
八田の家族のみならず
アジア各地にあった
日本の植民地にいた日本人全員に、
強制帰国命令が出されました。
要するに、勝利した連合軍側から
「日本人は植民地から早く出て行け」
と、命じられたのです。これは
当時「復員命令」と呼ばれました。)
この復員命令に対して、
八田夫人の外代樹(とよき)さんは
終戦間もない9月1日未明に
遺書を残して
夫が精魂込めて作り上げた
烏山頭ダムの放水路に
身を投じて亡くなりました。
夫亡き後も、
夫が作った思い出深い
烏山頭ダムのそばで
生きていることを
心の支えにしていたのに、
そのダムから引き離される
悲しさ・苦痛に耐えきれず
天国で待つ夫の元へ
旅立ったのでしょう。
台湾南部の嘉南平野の人々は、
この地のために
情熱と命を捧げてくれた
八田夫妻の死を悲しみました。
戦争が終わった翌年の
1946年12月15日、
現地の人々によって
八田與一と外代樹夫人の墓が
ダムのぞばに建立されました。
その墓には、ダム建設のために
必死に知恵を絞る八田與一の
生前の姿を形取った銅像があります。
その銅像には、
今も多くの台湾人が
感謝の気持ちをこめて
花を手向けにくることが多い
(民放のTVでもそう申していました)
とのことです。
2014年の春、
叙勲で旭日双光章を受賞した
「台湾人と日本精神」
~日本人よ胸を張りなさい~
の著者としても有名な
蔡焜燦(さいこんさん)氏は
著書の中でこう述べます。
「私は、日本からの訪問者を
この地(烏山頭ダム)に案内する時、
しみじみ思うことがある。それは、
もし日本の
台湾統治がなかったら、
こんな立派なダムもなく、
おそらく台湾は
中国の辺境に位置する
貧しい島の一つに
なってしまっていたであろう
ということだ。
これは単なる私個人の推量ではなく、
その後の中国人による
台湾支配(蒋介石の国民党が
日本敗戦後、台湾にきた)を
経験した多くの台湾人が
確信していることである。
戦後日本では、
かつての植民地支配統治を
無条件に批判する言論が
幅を利かせていると聞く。
が、日本による台湾統治によって、
いかに多くの台湾人が
恩恵を受けたと言う側面を
考慮しないことは
あまりにもお粗末であり、
聞くに耐えない。
それは、
単なる特定イデオロギーに染まった
「こじつけ」でしかなく、
少なくとも
日本の統治を受けた台湾人には
理解しがたいことであることも、
ここに付記しておく必要があろう。」
東京裁判史観に
洗脳されている人達に
是非とも読んで頂きたい
書籍でもありますね。
【6.日本のよい功績を抹殺する国々とは違う台湾】
他方で、日本によって 戦前、
インフラや 教育整備されたことを
一切教えない国が
中国・韓国・北朝鮮です。
この3国は
日本による統治を受けた時代は
ひどい暗黒時代だったと
悪い側面ばかりを強調して
反日教育を自国内でいまだに
継続しているのです。
実際、日本が
中国を統治し支配した時代、
満州と呼ばれた中国東北部と
朝鮮半島では、台湾と同様に
道路・鉄道・ダム・電力・教育
などの各種インフラを
日本は整備するため、
莫大な額の投資と人材を
投入しています。
その恩恵は今も、
中国東北部や朝鮮半島の
(特に電力インフラなどは)
人々を潤しているのですが、
この3国はそうした事実を
一切、自国民に教えません。
しかしながら、
台湾はそんな3国とは
一線を画しているのです。
(ただ、そんな台湾も、
蒋介石の国民党政権が
強権と戒厳令まで敷いた時、
日本に統治された時代を
暗黒時代として決めつけ、
反日に傾いた時もありましたが
今は、そうではありません。)
日本にとってはありがたい、
日本がなした功績を
きちんと知っている国が
台湾なのです。
このような歴史的観点から
台湾が日本に恩義と
親日感をもって、
東日本大震災の時
他国に類を見ないほどの
巨額の支援をやってくれた
お礼をしたいと私は思い、
今回、義援金を出しました。
是非、
あなたもこれを契機に
台湾と日本の
歴史的なつながりや、
かつて
日本が台湾やアジア諸国になした
功績も知ってほしいと思います。
本日は以上です。
当塾では、
現在メルマガ登録を勧めています。
これからの時代に
「最大限に自分自身を生きる人」に
なっていくためのヒントや
切り口をメルマガで詳しくお伝えし、
その準備をお手伝いしたいからです。
よろしければ、登録をお願い申し上げます。
下記リンク先をクリックしてください。
登録への入り口・案内が出てまいります。
(なお、できればブラウザーは
インターネットエクスプローラー
以外のものから、アクセスしてください。
例えば
グーグルクロムや、ファイヤーフォックス
などが良いようです。)
https://miyanari-jun.jp/2019/02/11/invitation-for-mailmagazine/
https://blog.with2.net/link/?1977488
↑「人気ブログランキング」へのリンクです。
もし、今回のこの記事がよかったと
思って頂けたなら、
クリックして頂けますと幸いです。
コメントを残す