近代の歴史を振り返る2 日英同盟締結~日露開戦初期まで 

日露戦争当時、
滅亡の危機に瀕していた
我が国・日本。

この危機を
先人らはどうやって
切り抜けていったのでしょうか?

一方で、
21世紀のこれからの時代は
古い価値観が崩れていき、
大きな変化と
激動が訪れることは
ほぼ間違いないでしょう。

そんな不安な時代ゆえに、
今よりもっと困難で
(滅亡するかもしれないという)
絶望的な状況下だった
100年以上前の
我が国の祖先らの努力に
学べる点は非常に多いと
私は思います。

先人らの
知恵と足跡に敬意を払いつつ、
現代に生きる我々は
そこから未来に生かせる
教訓を得たいと考えます。

また、生き延びるべく
智恵と汗を絞り、懸命に戦う
当時の日本に対して
天が味方になり、
数々の奇跡が起きたことも
5回のシリーズにしてお伝えします。
今回はその2回目です。

なお、私がなぜここまで
日露戦争に深く解説するのか?

その理由は別のブログ記事を
ご参照ください。(下記リンク参照)

 https://miyanari-jun.jp/2017/05/26/nichiro-war-history/

【1.戦費調達に苦労した先人たち】

前回記事の「近代の歴史を振り返る1
日英同盟締結まで」の続きです。

日英同盟によって日本は
大国ロシアと戦うための
大きな後ろ盾を手にしました。

それはよかったのですが、
一方で日本は開戦に際して
戦費が全く足りませんでした。

1868年に維新を成立させて
30年以上近代化に
邁進してきたとはいえ、
欧州列強から見れば
日本はまだまだ弱小の貧乏国でした。

そんな弱貧国が、当時、
世界最大最強の陸軍を擁している
大国ロシアに戦争を挑むには、
日本の国家予算の何倍もの
戦費が必要となりました。

どれくらいかかったのでしょう?

ちなみに日露戦争期の日本の
国家予算は年間2億6000万円ほど。

約2年戦った日露戦争で最終的に
かかった戦費は17億円になりました。
年間国家予算の約6.5倍ですね。

今の感覚でいえば、
年100兆円の国家予算に対して
国内総生産GDP(約500兆円)を
遥かに超える650兆円の
莫大な規模の戦費と
思えば何となくわかりますよね。

結果、日本は国家財政が
破産する寸前までとなりました。
まさしく国家総力戦だったことが
わかりますね。

この巨額の戦時費用は、
 政府だけでは賄えませんでした。

では、どうしたか?

自国だけで戦費が足りなければ
国債を発行して調達しよう。

明治政府も当然そうしました。

今の日本は
国家予算100兆円の10倍とされる
1000兆円の借金をしているんだから、
同じように国債で戦費を集めれば
いいじゃないか?という声が
聞こえてきそうですね。

現代の日本はご存知の通り、
借金が1000兆円と膨大でも、
それを買い支えるだけの
機関投資家や個人の国内資産
の合計が約2000兆円と
借金の倍はあります。

しかも、日本政府が発行する
国債も90パーセント以上を
そうした国内の機関投資家や
個人が買い上げています。

今の日本は
国全体として金融資産が潤沢
であるというのが、日露戦争
直前の状況と全く異なります。

日露戦争直前の日本は
とても貧乏でした。

明治時代後半の日本は
近代化を開始して
まだ30年余りで、
今のように国内に資産も
まだ十分にありませんでした。

戦費国債を大量に発行し、
ロシアとの戦いに必要な
国家予算の6.5倍もの巨額債権を
国内で買い支えるだけの
機関投資家や個人は
当時はいませんでした。

だから、戦費国債を
日本政府が売りに出しても
今の時代のように国内で
大半を買って貰えるという
ことなど夢物語でした。

実際、
国家予算規模2.6億円に対し
国内で調達できたのは
8億円ほど。

あと9億円足りませんでした。

このままでは戦費が足りず
必要な軍備が出来ず
日本は 滅亡するしかありません。

では、当時の政府はどうやって
この難局を乗り切ったのでしょう?

国内で借金を賄えないなら、
海外に売り出して
借金すれば良いではないか?

現代日本の国債なら
売りに出せば
海外の機関投資家の個人も
買ってくれますよね。

なぜなら、
日本経済力への高い評価があり、
かつ、
「日本政府発行の国債なら、
投資しても取り損ねることは
ないだろう」との信頼が
あるから売れるのです。

一方、
日露戦争直前はどうだったか?

戦争をするための
借金を外国からすべく、
国債を買ってもらうには
日本がロシアに勝つ
見込みがあることが
大前提となります。

日本が生き残って、かつ、
以降も借金を返してくれる見込みが
あって初めて借り手がつきます。

でないと、
負けて滅びる国の
国債など誰が買いますか?

日露戦争直前の当時、
日本が大国ロシアに勝つことを
予想する国は
世界中どこにも
ありませんでした。

東洋の新興小国が、
欧州列強の中でも
最強の陸軍を持つ
大国ロシアに戦争を仕掛ける?
勝てるはずがない。

当時の世界のマスコミは
どこもそんな論評でした。

よって、滅亡の可能性が高く
償還されない国債を
引き受ける買い手や投資家を
見つけるのは至難の業でした。

 日本は
「戦費を借りられなければ、
戦う前に滅亡してしまう」
という絶体絶命の
危機に直面していたのです。


【2.元老・井上馨の涙の訳は・・・】

日本政府内でも
勝利を確信する者は皆無でした。

それでも、座して戦わねば
日本は滅亡する状況でしたので、
写真にあるように
素手で戦車に立ち向かうような
覚悟で立ち上がったのでした。

後に、
旅順要塞を陥落させる
陸軍参謀本部の
児玉源太郎ですら
開戦前は
「死力を尽くしても五分五分か、
それを何とか六分四分にできるよう
寝食を取らず考えているところだ。」
という状態でした。

そんな状況で、
どうやって戦費国債を
海外で売れば良いでしょう?

日本政府は日銀副総裁で
海外経験が豊富な
高橋是清を日本の国債(外債)
の売り込み営業のために
海外に派遣することを決めます。

(海外で国債を売っている時の
写真です。右から二番目が高橋。)

明治政府の元老・井上馨は、
高橋是清を送りだすパーティで
激励の挨拶をします。

そのスピーチにおいて
「万一、高橋君の外債募集がうまく
行かなかったら日本は・・・」
ここまで言うとその後は、
こみ上げる感情を抑え切れず
井上馨は人目も憚らず嗚咽します。

 元老として、公式の場で
・・・のところに
「滅びてしまう」という発言は
できなかったのでしょう。

明治維新前から、
そして維新が成ってからも
数々の苦労と多くの犠牲の上に
積み重ねてきた近代日本。

近代化を行ってきた
約40年間の苦労が骨身に染みて
分かっている
元勲の井上だからこそ、
日本の存亡がかかっている
外債募集に対する思いは
涙無しには語れませんでした。

この国が
生き残れるのか滅亡するか、
分岐点にあったのです。

しかしながら、
ここから戦争に勝つまで
日本は
命がけの綱渡りと、
神懸かった奇跡を
連続で起こして行くのです。

【3.戦費不十分のまま開戦へ!】

戦費調達の目処がまだたたない
最中に日本はロシアと1904年、
開戦に踏み切らざるをえなくなります。

え?
見切り発車で戦争を始めたの?
と、思ったかもしれません。

見切り発車になった
要因はいろいろあったと思いますが
ロシアのシベリア鉄道が
全線開通直前となったことが
私は開戦に踏み切った
一番の要因だったと推測します。

もしも、
シベリア鉄道が全線開通されると
遼東半島の旅順に
ロシアの首都
サンクトペテルブルクから
大量の兵員と武器が運ばれ、
もはや日本に
勝つ見込みがなくなるからです。

その前に
遼東半島に駐留するロシア軍を
叩く必要があったからです。

戦争が本当に始まった以上、
日本政府は急ぎ
金の工面の必要に迫られました。

先ほど述べた高橋是清は
海外で外債募集を行います。
目標額は1億円でした。
(最初の募集はこの額でした。後に
2回目、3回目、4回目と募集します。)

彼はまず、アメリカ合衆国に渡ります。

アメリカ政府は
米比戦争が終わった直後で、
フィリピンを巡り三年間(1899〜1902年)
も戦い、疲弊していました。

よって、アメリカ政府に
日本にお金を貸せる
余裕はありませんでした。

では、アメリカの銀行や投資家はどうか?

当時、外債を募集する国は
借金が返せない場合に備えて
自国の有する資源(鉱山や炭鉱)や
植民地にある資産(鉄道など)を
担保に差し出していました。

日本が発行する債権には
実は担保に差し出すものが
殆どありませんでした。

日清戦争で勝って
台湾や小さな島を
領有していましたが
担保になるような
資源や資産はなく
本当に貧乏だったのです。

勝ち目がない弱小国で、
おまけに担保も出せない。

これでは
銀行や投資家は見向きもしません。

どの国からもお金が借りられない
となると、日本滅亡は確実です。
「やばい。これは困った・・・。」

そんなピンチでも
日本政府が発行する国債を
買ってくれるかもしれない
国が一つだけありました。

高橋是清は、アメリカに見切りを つけ、
次の候補国に向かいます。

【4.日本の命運を背負った外債の売り込み】

その国とは、同盟を結んだイギリスでした。

イギリスが対ロシアに関しては
特に南下政策に脅威を感じ
日本と利害が一致していることは
以前お伝えしましたね。

結果、日露戦争開戦の2年前に
日英同盟(1902年)を結びました。

でも、いくら利害が一致して
同盟を結んだとしても、
大国ロシアと直接戦争をするための
莫大な費用を日本に貸してくれるか
となると事情は変わってきます。

イギリスは
南アフリカに50万の大軍を
送り込んだブール戦争(1899〜1902年)
でかなり疲弊していました。

従って、極東遠く離れた日本に
援軍を送ることは全く無理でした。

しかもブール戦争で
戦費が相当つぎ込まれたため、
イギリス政府が日本国債を
買ってくれる保証もありません。

えーっ、では何のための同盟?
と思うかもしれません。

ですが、
当時世界最強の海軍を有し
名誉ある孤立を標榜していた
大英帝国が日本と組んだことは
ロシアのみならず、
世界中に衝撃を与えました。

実はこの同盟、後に効果がでます。
ロシアに対し
ボディブローとして効いて行きます。

ともあれ、
高橋是清はイギリスに渡ります。

そして、ロンドンの外債市場で
日本の国債を買いませんか?と
売り込みます。

案の定、
外債を全く買ってくれなかった
アメリカの投資家たちと
同じような反応が返ってきます。

「日本は大国ロシアに戦いを挑んだ
ものの、極東の新興国でまだ弱小。」
「日本は負ける可能性が高い。」
「負けて滅亡すれば、日本の国債は
紙切れになるだろう」と、
イギリスの銀行や機関投資家らも
購入を躊躇します。

高橋は、次のような説明で
懸命に訴え、売り込みます。

「今回の戦争は、国家生存のため
日本は止むを得ず立ち上がった。
正当な自衛戦争である。」
「日本国民は 、老若男女を問わず
ロシアに対し最後の一人となるとも
戦い抜く所存である。」
「日本は不平等な条約を結ばれても
きちんと履行し、元本返済もやっている
近代国家である。」
「条約を破ったり裏切ることもしない。
ロシアと我が国は違う。」

(実際に、関税自主権はまだこの時は
日本は回復できておらず、不平等な
条件下で貿易を我慢してやってました。
また、官営工場や国内の鉄道建設で
外国から借金もしましたが、延滞する
ことなく、ちゃんと返済していました。)

「日本は最後に勝利する。
日本国債を買うことで、
あなた方は必ず
大きな利益を得ることになる。」

アメリカでは見向きもされなかった
高橋の外債公募でしたが、
同盟国のイギリス人には
高橋の熱意ある説明が
徐々に浸透していきました。

結果、
目標額1億円=1000万ポンドの内
500万ポンドの募集に成功します。

しかし、まだ目標額に
500万ポンド足りません。

この時点で既に開戦していたため、
戦費は発生しており、
お金がどんどん無くなって行きます。
早く外債募集を
成功させないと日本は破産します。

戦争が継続できなくなると、
負けて滅亡してしまいます。

残り時間が少ない中で、
高橋はどうやって
残り500万ポンドを集めたのでしょうか?

【5.大富豪との奇跡の出会い】

綱渡りの日本と高橋に
ロンドンで奇跡が起きます。

天は日本を見放しません。

ロンドンで高橋は、世界的な大富豪
ジェイコブ・シフと出会えたからです。

目標額のとりあえず半分の
500万ポンドを確保したところで、
出資を約してくれた銀行や投資家達
を集め、お礼のパーティーを
ロンドンで日本側が用意します。

そのパーティーの集いに
ジェイコブ・シフも
まだ出資はしていませんでしたが、
投資家らと共に
興味を持って出席しました。

シフは、その場で高橋是清に
日本のことを色々と聞きます。

その結果、その場で、
残り500万ポンドを
すべて引き受けると
申し出てくれたのです。

何故か?
彼はユダヤ人でした。

実は、
ユダヤ人はロシア帝国内で
迫害されていました。
ロシア帝国は金を借りる時は
甘い言葉でユダヤ系の富豪から
借金をします。

ところが用が済めばユダヤ人らを
使い捨てるように迫害していました。

ユダヤ人への迫害と聞くと、
ヒトラー時代のドイツが有名ですが、
ロシア帝国や
オーストリア・ハンガリー帝国
でも実は同じことが起きていました。

シフは、そんなロシア帝国を
許し難いと思っていました。

よって、ロシアに戦いを挑んだ
日本を資金で応援することで、
ロシア領内にいるユダヤ人らを
助けようと側面から援護射撃
することを考えたからでした。

つまり、
敵の敵は味方だと考えて、
日本に投資することにしたのです。

シフは回想録にこう記しています。
「ロシア帝国に立ち上がった日本は
神の杖である」と。

これで何とか初回の外債募集は
見事に目標額の達成に成功。
日本は開戦当初の戦費調達ができ、
滅亡を回避したのです。

その後、
日本は戦費が足らないとなると
複数回、外債募集を行います。
 
その都度、シフが様々に援助や
世界各地のユダヤ人富豪に
日本への出資応援するよう
手を回してくれるのです。

シフは日露戦争終結後に、
明治天皇から
勲一等旭日大綬章を1906年に
贈られました。(最高勲章です。)

日本を滅亡から救った立役者の
一人として表彰されたんですね。
 

歴史に「たら・れば」は禁物ですが
もし、ロンドンのパーティーの席に
シフが出席してなければ・・・

あるいは高橋是清の
情熱的な外債募集演説をもってしても
誰からも投資がなければ・・・
 
日本は1904年には滅亡し、
今頃我々は
ロシアの植民地となり
奴隷になっていた ことでしょう。

日露戦争はこうした奇跡が
次々に起きていきます。

歴史を紐解くときに、
私は祖先らの
懸命な努力に感銘を受けますが
加えて
日本に対する天の助け、
大いなる神仏の援助の
実在を強く感じることになるでしょう。


【6.開戦は海で始まった!】

先ほど、見切り発車で1904年に
開戦せざるを得なかったと申しました。

では場所はどこか?
それが仁川沖の海戦でした。

この仁川港には
中国の遼東半島の旅順港、
さらには沿海州の
ウラジオストックと並んで
当時、ロシアの艦隊が停泊していました。

(すでに日本近海に3箇所も
ロシアは艦隊を配備して着々と
極東侵略を進めていました。)
 

ではなぜ、
仁川沖で最初の戦いが起きたのでしょう?
 
ロシアとの
今後の戦況を展望すると、

①満州や遼東半島を押さえる必要がある。
②そのために、日本の
 陸軍部隊や必要な物資を
 朝鮮半島北部に送り込む必要がある。
③そのための補給ルート(いわゆる兵站)
 を確保する必要がある。
④結果、考えられる補給・行軍ルートは
 3つありました。
 
 a.朝鮮半島の南端の釜山に上陸して、
  そこから陸路で半島北部へ向かう。
 b.朝鮮半島の中部の仁川に上陸して
  そこから陸路で半島北部へ向かう。
 c.遼東半島の付け根の大狐山
  (中国の大連と、北朝鮮の平壌
  (ピョンヤン)との中間点にあり。)
  に上陸してそこから陸路で
  遼東半島や満州に向かう。

プランa.に対しては
陸軍が渋い顔をしました。

理由は、
釜山から満州や遼東半島まで
陸上移動がかなり長距離となり、
兵が戦う前から
行軍だけで消耗することを
懸念したからでした。  

プランc.では、
海上で兵員や物資を輸送する際、
旅順港からロシア海軍に出撃されて
攻撃されるリスクが位置的にあり、
海軍側が戦力ダウンすることに
強い懸念を示しました。  

よって、中間点としての
プランb.が採用されます。

仁川に上陸すべく、
日本は仁川港のロシア海軍を
早速叩きに行きます。

ここに仁川沖海戦が始まります。

仁川港に停泊していた
ロシア海軍の艦船数は
幸いウラジオストックや
旅順港にいた数よりも
少ないこともあり、
日本は初勝利を収めます。

以降、日本側は
海軍が運んだ
陸軍兵士・物資を
仁川に上陸させ、
満州や遼東半島に
陸路で向かわせるのです。

ちなみに、仁川は
この日露戦争の46年後の
1950年に勃発する
朝鮮戦争でも、
ターニングポイントとなる
要衝の地です。

ソ連軍や中国連合軍に
南の釜山にまで押し込まれ、
絶対絶命のピンチになった
アメリカ軍は劣勢を挽回すべく
あのマッカーサー司令が
奇襲上陸作戦を仁川で敢行します。

その結果、一気に38度線まで
形勢を盛り返すことになるのです。
(だから、南北朝鮮は北緯38度線で
一旦休戦し現在に至ります。)

さて、
日露戦争初戦での勝利の一報は、
遠く英国のロンドンで
外債募集をやっていた
高橋是清たち一行には
大きな追い風になりました。

一方で
初回1000万ポンド
=1億円の外債募集には
成功したものの、
1日1日、莫大な戦費が
費消されていく状態です。
 

日本政府は、
ただちに第2次外債募集を
行うことをロンドンの高橋達に
暗号で打電・命じます。

この第2次外債募集を行う
まさにその時期に
仁川沖の海戦よりも大規模な
ロシア軍本隊との
本格的な衝突が
日本を待ち受けていました。

【7.世界が注目した「鴨緑江の戦い」】

仁川沖海戦での
初戦に勝利した日本は
ここから陸軍を上陸・北上させます。

そして、
満州と朝鮮の国境を流れる
鴨緑江(おうりょくこう)で
日露両軍が相対峙します。

しかし、ロシア軍は決戦を望まず
川の向こう岸で戦う構えだけで
動こうとはしませんでした。

ロシア側はこう考えました。
川を挟んだ戦いでは
動いた方が負け。

無理に川を突進しても、
兵は水で足をとられ
銃で狙い撃ちされるだけ。

まして日本は、国家予算規模では
ロシアの8分の1以下の貧乏国家。

じっとして
兵糧や物資を消耗させれば
音を上げるのは日本軍のはず。
ならば、持久戦に持ち込んでしまえ。

実際その通りでした。
日本が打って出ても形勢は不利。

まして、外国から借金してまで
戦費調達せねばならない
貧乏な日本には
国力や軍事物資を消耗する
長期の持久戦は
絶対に避けねばなりませんでした。

高橋是清の
第二次外債募集と
同時期に重なった
鴨緑江の戦いは、
世界各国も注目していました。

ここで敗れると、
第二次外債募集をかけても
日本に期待を寄せる国もなくなり、
投資してもらえません。
そうなると日本はお金が底を尽き、
敗戦と滅亡が待っています。

またまた日本は
存亡の危機に立たされたのです。

高橋是清が一回目の外債募集を
大富豪ジェイコブ・シフの登場という
奇跡もあって無事に乗り切りました。

短期決戦で勝たねばならない
鴨緑江の戦いでも
奇跡は起きたのでしょうか?

起きました。
また天が日本陸軍に味方します。

持久戦を避けたい
第一軍の総司令官・黒木為楨
(くろきためもと)は策を考えます。

日露両軍が相対峙しているのは
鴨緑江の下流でした。

そこで夜、上流に
密かに軍橋(兵を渡河させるために
軍が架ける臨時の橋)を架けます。

そして、敵正面に留守番部隊を残し、
主力部隊が別動で
こっそり軍橋を渡り
ロシア軍を側面から奇襲するという
作戦を考え出します。

しかし、
ロシア軍も馬鹿ではありません。
夜間はサーチライトで
陣地周辺を照らし、
川の上流にも偵察兵を送り込んで
当然警戒しています。

夜陰に紛れて、敵に気づかれず
軍橋を作って、かつ川を渡るには
月がない、真っ暗闇でもない限り
必ずバレてしまいます。

そんな日本軍に
天が助け出してくれるのです。

その夜は、満月のはずが
見る見る暗雲が垂れ込めてきました。
しかも濃霧になります。

しめた!闇と濃霧!

これならサーチライトにも
敵の偵察兵にも見えない。
軍橋を川に架けるなら
今しかありません。

やがて軍橋が完成し、
日本軍が無事に渡りきったところで、
それを待ってくれていたかのように
雨雲から大雨が降りだし、
軍橋を押し流します。

これを奇跡言わずして何と言いましょう?

こうしてロシア軍は
側面から奇襲攻撃をかけられ
大混乱に陥りました。

川の正面に残っていた
留守番部隊も加勢して
日本は、ロシアとの
陸上での初の本格的な
戦闘に大勝利を収めたのです。

イギリスの新聞タイムズは
以下のように全世界に発信します。
「今回の鴨緑江の会戦は、
いかなるヨーロッパの
第一級陸軍をもってしても
決して容易な業にあらず。
日本軍の指揮と勇気、
そして完璧な組織には
これに見合う賞賛の言葉もなし。」

この報道が、タイミングよく
高橋是清の第二次外債募集に
強力な追い風となります。

日本はロシアに
負けると踏んでいた
世界各国の銀行や
投資家の評価が180度変わります。

「日本やるじゃん」
「極東の弱小国が
世界最強の陸軍を擁する
大国ロシアを破るとは」

結果、二回目の外債募集目標は
二億円だったのですが、
買いたいという投資家が殺到し
瞬く間に目標額に到達します。

またまた、
日本は滅亡を回避できたのです。

鴨緑江の戦いにも、
日本を応援してくれる
天の計らい(天祐)が
あったのですね。

【8.鴨緑江の次は、南山の要塞へ】

鴨緑江の戦いを制し、
大国ロシアを破ったことで
世界中を驚かせた日本軍は
次にロシア軍が立て籠もる
遼東半島に向かいます。

日本軍の目的は
遼東半島の南端・旅順港にいる
ロシア艦隊を封じ込めるか、
壊滅することでした。

この敵艦隊を無力化すれば
渤海湾の制海権を
ロシアから奪い返し、
日本が握ることができる
のみならず、
朝鮮半島や満州方面に
日本軍向けに物資を送る
シーレーンをロシア艦隊から
攻撃されるリスクも
消すことができるからです。

遼東半島先端に繋がる
入り口とも いうべき地域は
幅4キロ程と
非常に狭くなっており、
そこに小高い山がありました。

南山といいます。

旅順に向かうには、必ず
この南山を通らねばなりません。

南山にはロシアが
堅牢な「近代要塞」を作って
日本軍を待っていました。

なぜか?
日本軍が旅順を狙って
ここを通ることを
予想していたからです。

南山と旅順で
戦闘が行なわれるのは
日露戦争が
初めてではありません。

日露戦争の10年前に起きた
日清戦争でも、南山と旅順は
要衝の地として戦闘がありました。
だから予想できたのです。

日清戦争では
日本軍は南山をわずか1日で、
殆ど自軍は無傷で落としました。
しかも、鴨緑江で勝ったこともあり
「南山などまた1日で落としてやる」
と息巻いていました。

一方、ロシア軍は10年前に
わずか1日で日本軍が
ここを陥落させたことを重く見て
最新装備の強固な近代要塞で
迎え撃つ準備をしていたのです。

NHKドラマ「坂の上の雲」で
ナレーターの渡辺謙さんが
ロシア軍の
近代要塞の恐ろしさを
以下のように説明しました。

「維新後初めて日本が
「近代」というものの恐ろしさを
知らされた、最初の体験であった
かも知れない。それを知ることを、
日本人は血で贖(あがな)った。」

では、ロシア軍の近代要塞は
何が恐ろしいのでしょう?

近代以前の要塞の壁と言えば
土やレンガだったのですが、
ロシア軍は
産業革命が生み出したベトン
(当時、コンクリートを
そう呼んでました。)で
要塞の壁を固めます。

ベトンはそれまでのレンガや
土とは比較にならない程堅牢です。
このため、
日本軍の銃は通じません。
物凄い防御力です。

ロシアは突貫工事でそれを作りました。

さらに塹壕、鉄条網、地雷といった
当時としては
最新の仕掛けを様々用意し、
日本軍を苦しめることになります。

一方、ロシア軍の攻撃兵器は
野戦砲114門の他、
日本軍が初めて知ることになる
多数の機関砲が用意されました。

機関砲とは機関銃のことです。
しかも、当時世界最新の
マキシム機関銃でした。

日本軍は単発で撃つ
小銃で戦おうとします。

一方、
機関銃は一秒間に何発も
連続で撃てますから、
攻撃力もロシア軍が上です。

しかも
ロシアの機関銃には
1900年に制定された
ハーグ陸戦条約で
人間には使用禁止となった
ダムダム弾が装填されました。

ダムダム弾は
アニメのルパン三世でも
一度登場してます。

ルパンがその標的として
腕のいい敵スナイパーに
ダムダム弾で狙われます。

あまりに殺傷力が高いため、
危うく命を落としそうになった
程の恐ろしい兵器です。

どれくらい殺傷力が高いか?

このダムダム弾は
人間の体内に入ると
鉛が内部で散弾銃のようにはじけます。

通常の弾のように貫通せずに、
人の内蔵をあちこち破壊する
殺傷力が高い残虐な兵器です。
だからこそ、国際的にも
使用は禁じられていました。

ロシア軍は国際条約で
禁止されたはずの
対人兵器を何故
躊躇することなく使うのか?

答えは、ロシア人は当時
日本人をマカーキー(猿)と
呼んで馬鹿にし、
人間と みなそうとは
しなかったからです。

人ではない、猿を殺すのに
ダムダム弾を使って何が悪い?

わずか100年程前、ロシア人は
日本人を殺すことは
猿をなぶり殺しにするのと
同じと考えていたのです。

【9.南山の要塞で日本軍は苦戦!】

それを裏付けるように
ロシアが日本軍を馬鹿にし、
かつ、低く見下していた
ことを示すエピソードもあります。

ロシア満州軍総司令官の
クロパトキン将軍は
次のように言い放ちました。
「日本兵三人に対してロシア兵は
一人で間に合うだろう。今回の
戦争は軍事的な散歩に過ぎない。」

(国際的に比較して日本はまだ弱小で、
兵の総数でロシアが圧倒していたので、
そういいたくなるのも理解できます。)

さて、日露戦争開戦後、
仁川沖の海戦と鴨緑江の陸戦で
連勝した日本軍でしたが
ここ南山では近代要塞を前に
初めて苦戦することになります。

ロシアの南山要塞に対して
小銃を持って「突撃!」と
肉弾戦法で立ち向かった
日本軍はどうなったか?

ロシア軍のマキシム機関銃が
雨嵐の如く
日本兵に降り注ぎました。

しかも、弾は殺傷力が
異常に高いダムダム弾です。

この日、午前5時から
始まった戦いでしたが
バダバタ日本兵が
機関銃よって倒れて行きます。

ベトン(コンクリート)の壁には
日本軍の小銃の弾は通じません。
撃っても全部弾かれてしまい、
要塞に立て籠もる
ロシア軍の兵は平気です。

日本軍もロシア軍と同様、
移動式の野戦砲を持ってましたので
要塞に砲弾を打ち込みますが
ベトンの壁は固く
致命傷にはなりません。

それでも南山攻撃を指揮する
第二軍の奥司令は
「突撃!」を命じ続けます。

ロシア軍からは機関銃が火を噴き
日本兵はまたバダバタ倒れました。

(この戦いには、後に旅順を攻める
第三軍の司令官・乃木希典将軍の
長男・勝典氏も従軍していましたが
戦死しました。)

攻防戦が始まって12時間、
攻める第二軍36,000の兵と
手持ちの野戦砲200門では
敵要塞はびくともしません。

それどころか、
敵の機関砲が炸裂し
日本の犠牲者は増えるばかりです。

小銃と野戦砲、肉弾戦では
太刀打ちできないこと、
そして機関銃の恐ろしさを
奥司令は痛感します。

このままでは勝てない。
この強固な要塞を落とすには
どうすればよいのでしょうか?

考えた第二軍は、
南山そばの金州湾で待機していた
味方の海軍力を借りることとします。

日本海軍が待機していた場所から
南山のロシア要塞までは
艦砲射撃で届く射程距離内でした。
 

日本陸軍の野戦砲の砲弾では、
べトンで固められた
ロシア要塞の壁を
撃ち抜くことはできなかったものの、
砲弾が段違いに大きく重たい
戦艦の艦砲射撃なら
堅牢なべトンの壁を
打ち砕くことができると
考えたからです。

 

味方の艦砲援護射撃の結果、
破壊力の大きい砲弾が
ロシアの要塞の壁や
陣地を破壊したことで
ようやく形勢は逆転します。
 

夕方5時過ぎから反撃に出て、
夜の20時すぎに
南山を日本軍が占領し
かろうじて勝利します。

 

ちなみに、この戦いでは
明治の文豪で有名な
森鴎外(本名は森林太郎)が
軍医として従軍しております。

 

ロシア軍は
国際的に使用を禁止されていた
ダムダム弾で撃ってきた
とお伝えしました。

この弾丸は貫通せずに
内蔵をあちこち破壊するので、
従軍する日本の軍医らは
負傷兵の治療に困難を極めます。 

この戦闘では
日本側の野戦病院は
800名程度の収容能力しかなく
森鴎外らは
あふれ返った死傷者らの
手当て・対応に苦労します。

では、どれくらいの死傷者がでたのか?

南山の戦いは1日で終了しますが
日本軍は6000名もの
死傷者をだしました。

これは、10年前に
1年かけて戦った日清戦争で
費消した全砲弾量と、
死傷者の数を上回ったのです。
 

大本営は、
南山を押さえたことで
ロシア軍の旅順港と
敵本国とをつなぐ
物資補給ルートの遮断に
成功したので
ほっとする反面、
ロシア近代要塞の恐ろしさに
慄然とします。

しかし、これはまだ序の口でした。
次の旅順では
もっと悲惨なことが待ち構えていました。

【10.旅順にも造られた難攻不落の要塞】

南山で
多くの死傷者を出しながらも
何とか攻略し、日本軍は
遂に旅順港に迫りました。
 
そこで見たものは、
南山以上に堅牢な
町と軍港全体を囲む
ロシアの近代要塞でした。

 
ここには
ロシア陸軍2個師団と、
ロシア海軍の旅順艦隊
がいました。
 

日本軍はこう考えます。
陸軍本隊は、これから敵の本隊がいる
満州の遼陽へ進軍・戦わねばならない。
南山を落とした第二軍もそちらに回したい。
(鴨緑江で勝利した第一軍と合流させます。)

ただし、
ロシア軍の旅順2個師団から
満州で戦う自軍が
背後から襲われないよう
押さえておきたい。

そのため、
乃木希典を大将とする
第三軍を編成します。

(南山で6000名もの
被害がでたので
戦闘をこちらから仕掛けず、
旅順を包囲しておくというのが
当初の役目でした。)

一方、渤海湾の制海権を有し
日本のシーレーンを脅かす
旅順艦隊は何とかして撃滅したい。

しかし、
港の周囲を堅牢な要塞が守り、
大砲を湾の外に向け、
日本海軍の艦船が
容易に近づけません。

【11.旅順港の入口を塞いでしまえ!】 

旅順艦隊を撃沈できないなら、
港から敵が出航できないよう
せめて封じ込めよう。

そうすればロシア海軍を無力化できる。
こう考えた日本海軍は、
港の入口を塞ぐ作戦を実行します。

旅順港の入り口は狭いので、
そこに廃船が決まった
古い船を何隻か沈めて
敵艦船が出入不能になればいい。

これが
「旅順港閉塞(へいそく)作戦」でした。

 
港を封鎖する作戦を遂行する場面は
NHKドラマ・坂の上の雲でも
詳しく描かれました。
 

夜陰に紛れて旅順港入り口に
廃船予定の運搬船を数隻連ねて
日本軍は海から近づきます。
(一隻だけでは港に蓋はできないため
 何隻も持っていく必要がありました。)
 
しかしながら、ロシア側も夜は
サーチライトを照らし警戒しております。

 
よって、新月や霧・雨など
なるべくこちらの姿が見つかりにくい
時や天候を狙ってトライします。
 

しかし、
港の入口に近づけば
敵要塞の警戒網に
やがて発見されます。

そうなると
陸地側から砲弾や魚雷が飛んできて
運搬船は目標地点到達する前に
沈められてしまうという
大きな危険を伴う作戦でした。
 
この2回目の作戦で、
有名な広瀬武夫も戦死します。

(彼の乗る福井丸が
ロシアの魚雷を受け
沈みゆく中で、
姿が見えない部下を
「杉野、杉野はいずこ!」
と叫びながら船内を探していた
武勇などが有名です。)

日本側は数回、
閉塞作戦を行いますが失敗します。

【12.ニコライ二世、旅順艦隊を動かす!】

旅順港の封鎖に失敗し、
ロシア旅順艦隊を
どう叩けばよいか
困っていた日本海軍に
チャンスが訪れます。

仁川沖、鴨緑江、南山で
3連敗しているとの報告に
怒り心頭になっていた
人物がいました。

ロシア帝国皇帝・ニコライ2世です。

彼は命じます。
「我が旅順艦隊は何を恐れて
港の奥でじっとしている?
マカーキー(猿)ごときに
負けるはずはなかろう。
ただちに出航し、
ウラジオストックに入港せよ!」

渤海湾の制海権を
一旦手放してでも、
旅順とウラジオストックの
両艦隊が合流すれば
極東に一大艦隊が出現します。

そうすれば
日本側のシーレーン
(日本本土~朝鮮半島や満州への
物資を補給する海上ルート)を
日本海や対馬海峡近辺で
攻撃・遮断できます。

結果、一気に形勢は
ロシア側に傾きます。

ニコライ二世は
なかなかの戦略家ですね。

旅順港の奥で
要塞に守られていた
ロシア旅順艦隊が
遂に出てきました。

日本海軍は
この時を待っていました。
ここで旅順艦隊を叩けば、
戦局は我が方に有利になるからです。

ここに黄海の海戦が始まります。
(NHKドラマの坂の上の雲では
この戦いは描かれませんでした。)

【13.黄海海戦、始まる!】

日本海軍第一艦隊の
参謀・秋山真之は
有名な「丁字戦法」を編み出し、
後に行われる日本海海戦で
その作戦を成功させたと
歴史書で紹介されることが
多いですが、 実際には
先に黄海海戦で試されます。

この「丁字戦法」は奇襲作戦です。

艦隊隊列を
一直線に組んでまっすぐに
敵艦隊に接近し
すれ違いざまに
正面から攻撃すると見せかけて、
急遽、敵艦隊の目の前で
90度直角に曲がります。

次に、敵の進路を塞ぐように
一列になり横断しながら
船の側面をむけて攻撃します。

実はこれ、
日本の海賊が昔から
駆使していた海戦戦術でした。

自軍が側面を向くことで
舷側に突き出す副砲のみならず
戦艦の前後にある砲門が
両方とも使えることで、
自軍の火力は倍増します。

日本のように非力な海軍が、
強大な敵艦隊に勝利するには
この戦法しかない。

参謀の秋山は後に、
海賊古来の戦術に接したことに
「目が開かれた」と
語ったといいます。

そして黄海海戦で
いよいよ「丁字戦法」を実践します。

敵艦隊との距離が
12000メートルになった時に
東郷平八郎司令は
「取り舵!」と
命じて丁字戦法を仕掛け、
砲雷撃戦に入ります。

(旗艦・三笠に載っていました。
もちろん参謀の秋山も一緒に
乗船していました。)

しかし、この時は
敵艦隊との距離が
まだありすぎたため、
丁字戦法が機能せず
日本側の陣形も乱れてしまいます。
結果、敵を取り逃がします。

まずい!
このまま旅順艦隊を取り逃がし
ウラジオストックに
入られたら日本はアウト。

そうなれば、ロシア側に
日本海の制海権を握られ
日本は滅亡してしまいます。

日本はまたまた
滅亡の危機に立たされます。

その時、東郷井平八郎は
どうしたのでしょうか?

【14.天が味方し奇跡が起きた!】

ロシア旅順艦隊を
黄海上で取り逃がしたのは
午後1時でした。
(1904年8月10日)

東郷平八郎司令は
「全速前進!敵艦隊を追え!」
と指示を出します。

日没まで4時間。
当時はレーダーがない時代です。
目視や双眼鏡だけが頼りで、
日没になればもう
海上は真っ暗闇で
敵を追跡・攻撃することは
当時の技術では不可能でした。

仮に追いつけたとしても
戦闘時間を考慮すると
3時間で
追いつかねばなりません。

しかし、敵艦隊は完全に
日本側の視界から
消えていました。
全速で追いかけますが、
敵艦隊の姿は一向に見えません。

3時間で追いつくには、
最初の戦闘でロスした
時間が大きかったのです。

日本の第一艦隊は
全速力であれば15.5ノット。
ロシア旅順艦隊は
全速なら14ノット。
日本側が時速換算で
3キロ弱だけ速いことだけが
頼みの綱でした。

それを信じて
日本第一艦隊は
必死で追いかけました。

もう、追いつくのは無理では・・・
と諦めかけていたところに
奇跡が起きました。

追尾開始から3時間後に
水平線上に
旅順艦隊を発見したからです。

時速換算で3キロ弱
こちらが速いとはいえ
それでは間に合わないほど
時間的にロスしたはず。
なのに、なぜ追いつけたか?

旅順艦隊も逃げるのに必死でした。

ロシア側も
ウラジオストックに向け
全速力で飛ばしていたのですが、
2番艦レトウィザンに
エンジントラブルが発生したため、
艦隊全体の速度を
落とさざるを得なくなったのでした。

敵のエンジントラブルがなければ
ウラジオストックに入港され
日本は滅亡していました。

これは天がくれた大きなチャンス!

しかし、
日没は目の前に迫っていました。
あと1時間でした。

 
レーダーもない時代です。
日没後は敵が見えなくなるので
また取り逃がす可能性が高まります。

では、日没までの残り1時間で
カタを付ければよいではないか?
と、現代人はそう考えますよね。

時代が違いました。
当時の戦艦の大砲の命中率は
どれぐらいだったか
ご存じでしょうか?

何と3パーセントです。
(NHK「その時歴史は動いた」より。)
100発撃って
敵艦に3発当たればOKでした。
よって、海戦は
非常に時間がかかりました。

現代であれば
コンピューターで制御された
一発の巡航ミサイルが
一撃必殺で敵艦を航行不能に
なるほど破壊できます。

そんなことは
当時の軍人からすれば
夢のまた夢なのです。

敵をすべて撃沈するのに
当時は1時間では厳しい。
しかし、やらねば日本が滅亡する。

そんな状況で
黄海海戦の第2幕が始まりました。

一方で、日本海軍は
新兵器を搭載していました。

日本独自に開発した
「下瀬火薬」と「伊集院信管」
でした。

特に「下瀬火薬」は火力が強く
破壊力がダントツでした。

敵艦船の甲板を
砲弾が打ち抜くと
伊集院信管が反応して
砲弾自体がただちに炸裂する
仕掛けになってました。

ものすごい火力で炸裂し、
敵艦内部を大きく破壊します。
そして、焼き払うことが
下瀬火薬で可能になりました。

NHKドラマ・坂の上の雲でも、
下瀬火薬の破壊力を示すシーンが
少し描かれていました。

後の日本海海戦のシーンで、
戦艦三笠が打った初弾が
敵艦のすぐそばの海に着弾します。

しかし、伊集院信管で
着弾を感知したその砲弾は
海にただ沈むだけでなく
すぐに炸裂し、
海の色が変わるほどの
真っ赤な大爆発を見せ
水面に大きな火柱が立ちます。

それを見たロシア兵は
初めて見る爆破力に
「何だ?この爆発は?」
と驚くシーンがありました。
 
それが下瀬火薬の力でした。

ロシア側の砲弾は、
そのような炸裂する技術や
破壊力はありませんでした。

よって、命中すれば
日本海軍の火力の方が
ロシアよりも上だったのです。

下瀬火薬でできた砲弾が、
旗艦・三笠の主砲から
ロシア旅順艦隊旗艦の
ツェサレーヴィッチに向け
発射されます。

 命中率3パーセントの時代ゆえ、
100発撃っても
97発は外れるのです。
当たっても3発程度。しかも、
どこに命中するかわかりません。

ここでまたもや天が日本に味方します。

 三笠が放った砲弾は
ツェサレーヴィッチの
何と指令室(ブリッジ)に
見事に命中します。

ただ命中しただけでなく、
下瀬火薬が炸裂することで
敵旗艦に乗船していた
旅順艦隊のウィトゲフト提督はじめ、
ロシア司令部の面々が
一瞬で死亡します。

しかし、艦長のイワノフは
まだかろうじて生きていました。

旗艦のブリッジがやられ、
その機能がマヒした場合、
どこの国の艦隊であっても、
速やかに味方の2番艦に
「旗艦権移譲信号」を
送ることになっていました。

深手を負いながらも
イワノフ艦長は信号を
味方に送るべく
息も絶え絶え作業にかかります。

そこにまた天が日本に味方します。

もう一発、
三笠の30センチ主砲の砲弾が
またツェサレーヴィッチの
指令室に飛び込んできます。

 参謀の秋山真之ですら
「怪弾」と評したほどの
日本を救うことになる
奇跡の命中が
二連発で起きたのです。

命中率3パーセント時代に
二発連続で直撃し、命中箇所が
敵旗艦の中枢のブリッジという
確率はおそらく10万分の1ぐらい
でしょう。これぞ真の奇跡です。

生き残っていた艦長以下
ロシア軍司令部メンバーが
二発目で全員死亡しました。

結果、「旗艦権移譲信号」は
打電できませんでした。

旗艦の司令室が
2連発の被弾で一瞬にして消滅。
味方2番艦以降の船が
全くそれに気づかないという、
海戦史上、考えられない状況が
黄海海戦では起きたのです。

司令官や艦長が戦死し、
人間でいうなら脳死状態になった
ロシア旗艦ツェサレーヴィッチは
どうなったか?

エンジンは動いているのですが、
操舵不能となり回頭始めます。

二番艦以下は、まさか
司令官や艦長ら首脳陣の
全員が死んでいるとは
想像だにしていません。

もし、操舵不能になれば
「旗艦権移譲信号」が
発信されるはずだが来ていない。

よって、
ロシア旅順艦隊の二番艦以下は
暴走するツェサレーヴィッチに
「変な動きをするなあ」と
思いながらも
「これも作戦行動か」と
信じて追従して行きます。

しかし、その後も何の指示も
ツェサレーヴィッチからは
来ないことから、
敵艦隊は大混乱に陥ります。

こうなれば形勢は
一気に日本軍に傾きます。
第一艦隊は総攻撃を始めます。

旅順艦隊は次々に撃沈され、
または武装解除していきます。

生き残った2番艦レトウィザンら
何隻の艦船は命からがら
旅順に引き返します。

このように黄海の海戦とは、
まさしく天の助けと
偶然が組み合わさった
歴史上、希にみる奇跡の勝利でした。

旅順にたどり着けた
艦船の大半は被弾し、
下瀬火薬のダメージにより
満身創痍でした。
この海戦で事実上、
旅順艦隊は無力化します。

【15.日本の連勝が植民地の人々を勇気づけた!】

黄海の海戦の4日後、
日本海でも日露は激突します。
 
蔚山(ウルサン)沖の海戦です。

敗北した旅順艦隊の救援と
生き残った艦船を迎えるため
ウラジオストックから
三隻の軍艦をロシアは派遣します。

ウラジオストックの
ロシア艦隊の動きには
上村彦之丞司令が率いる第二艦隊が、
日本の補給船や補給ルートを
守るべく警戒に当たっていました。

しかしながら、
ウラジオストックの艦隊は
神出鬼没で
日本側は何度も取り逃がしました。

理由は、
日本海で発生する濃霧です。
当時はレーダーがないので
濃霧が出ると敵艦を探して
攻撃するのは至難の技でした。
 
取り逃がしただけでなく、
何隻かの補給船を
ウラジオストック艦隊に
日本側は沈められました。
 

この憎き敵艦隊三隻のうち
一隻を沈め、二隻を大破させ
見事に勝利しました。
この海戦が蔚山沖の海戦でした。
 

結果、日本海軍は1904年8月に
黄海と蔚山沖の二つの海戦で
大きな勝利を得ました。

この結果、
(1)仁川沖の海戦、
(2)鴨緑江の戦い、
(3)南山の戦い、
(4)黄海海戦、
(5)蔚山沖海戦と、
日本は主な会戦で
ロシアに5連勝となりました。
(旅順港閉塞作戦を除きます。)

極東の弱小新興国が
列強の大国ロシアに
予想外の連戦連勝。

このニュースは
当時のマスコミを通じて
全世界に配信され、
世界中を驚かせます。
 

日本が戦費調達のため
3回目、4回目の外債募集をすると
多くの国が買ってくれました。
 

それだけではありません。
ここからが非常に大事です。

日本が
ロシアに勝ち続けたことで
欧州列強の植民地支配に
苦しむアジア各国に
どれだけの勇気と希望を与えたか?

後にイギリスに対し
ガンジーとともに独立運動を起こし
インドの初代首相になる
ネールは当時学生でした。

ネールは毎朝の新聞が待ち遠しくて
「日本がまた勝った」と
報道される度に歓喜しました。
「日本はアジアの星だ」
とまで言いました。
 

ロシア帝国の侵略に喘いでいた
トルコやイスラム世界でも、
後の旅順や奉天での
日本の勝利に民衆が沸き立った
との記録もあります。
 

オスマン・トルコ帝国では
日露戦争が終了してから
わすか三年後の1908年に
立憲革命が起きます。
 

旧態依然とした体制から
欧州列強に対抗できる
ようにしようとしたのですが、
この立憲革命は
実は日本の近代化の成功と
勝利が刺激になっている
ことは間違いありません。

当時生まれたトルコの子供には
日本軍の司令官の名前から
トーゴー(東郷平八郎)、
ノギ(乃木希典)とつけたり、
ジャポンヤ(日本)と
名付けることが流行となりました。
(今でもトルコ人の多くは親日派です。)

そうです。

欧州列強らに植え付けられた
白人だけが優勢人種とされた
間違った世界観や人種差別、
さらには
帝国主義的支配を叩き壊す
歴史的転換点となったのです。

これこそが日露戦争の本当の意義です。

日本が勝ったことで
アジアや中東諸国で起きる近代化と、
植民地支配打破に繋がる
独立運動の原動力になります。

日本の勝利がなければ、
アジアやアフリカ諸国は
きっと今も
欧米の植民地のままだったはずです。

地球上の文明の流れを変える
起爆剤が日露戦争だったのです。

さらに申し上げると
・黄海海戦で起きた奇跡も、
・その前の鴨緑江での奇跡も、
さらには
・高橋是清が外債を募集する際に
シフと出会った奇跡の背後にも、

地上の文明の流れを

白人優位から転換させたい
天上界の計画と応援があったと
私は確信する次第です。


【16.虎の子バルチック艦隊が遂に動く!】

日本側は勝利したものの
黄海海戦終了時点で
旅順艦隊にどれだけ損害を与えたか、
につき把握できずにいました。

旅順に逃げ込んだ敵艦船は
まだダメージがそれ程受けず
かなり余力があるのでは?と
怯えるようになります。

一方、
ロシア皇帝のニコライ二世は
黄海海戦・蔚山沖海戦での
敗北の知らせを聞き激怒します。

そりゃ、そうですよね。
仁川沖の海戦、鴨緑江の戦い、
南山の戦いからずっと連敗で
大国としてのメンツ丸つぶれです。

(蔚山沖の海戦後に、
遼陽でも陸戦がありました。
そこでも日本軍が勝利。
これでロシアは6連敗。)

そこで遂に、
首都サンクトペテルブルクの
周辺海域を防衛している
虎の子・バルチック艦隊を
北欧から極東に派遣する
ことを決定しました。

このニュースは世界を驚かせます。
「遂に、ロシアが本気を出した!」
という論調になります。

ロシアからの圧迫に苦しんでいた
隣国のフィンランドでは
バルチック艦隊が出港するのを見て
「さすがに日本もこれまでだな」
「大国の逆鱗に触れ、滅ぼされる。
ああ、かわいそうだなあ。」
という目でみておりました。

日本側の反応はどうだったか?

バルチック艦隊が来て、
旅順艦隊と挟み撃ちにされると
日本艦隊はやられてしまいます。

そうなると、
日本周辺の制海権を握られ、
朝鮮半島への補給路も断たれます。
大陸に送り込んだ陸軍も敗れ
形勢がロシアにひっくり返ると
日本の滅亡につながります。

何としても防がねばなりません。

よって、
バルチック艦隊到着の前に
旅順艦隊を撃滅して、
挟み撃ちに遭わないよう
にする必要性がでてきました。

しかし、旅順港の周囲は
ロシアの近代要塞が、
べトン(コンクリート)で
壁を固め、かつ
港の外に向けては
砲門・魚雷を多数用意しているため
海軍は旅順艦隊に手を出せません。

旅順港の封鎖にも失敗しました。

では、どうやって旅順艦隊を
たたけばよいでしょうか?

続きは別の記事で掲載しましょう。

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