当塾では、
中高年サラリーマンに目覚めて頂き
「最大限の自分自身を生きる人」
に近づくヒント・情報を
様々な切り口で提供しております。
本日の学習テーマは
(お金の法則の第2弾を説明する前に、)
東日本大震災から
(当該記事を初めて書いたのが
2018年3月でしたので)
7年目を迎えていることから
「日本の底力を再認識しよう」
として考察したいと思います。
2011年3月11日は、
日本人にとっては忘れられない
東日本大震災が発生しました。
多くのマスコミは
この日になると
震災の怖さ、
原発事故の後処理の困難さ、
今も故郷に戻れない人がいる、
あるいは
震災後に仮設住宅で孤独死が
あって「震災関連死」で
震災以降何人亡くなった・・・・
などのニュースが流れ、
ネガティブな話ばかりを
特集・強調しがちです。
ですが、
ネガティブな面ばかりでなく、
私はポジティブな面にも
スポットを当てたいと思います。
当塾が提唱し目指している
「最大限の自分自身を生きる人」に
なるためには、
ネガティブな観念を
極力手放し、
「人生はきっとよくなる」
「日本もきっとよくなる」
「人間には強いパワーがある」
と、ポジティブな思いと
よいセルフイメージを持つべきだ、
が当塾の持論だからです。
そうなるような情報をお届けして、
あなたを元気づけたいのです。
【1.略奪行為が起きなかった日本】
東日本大震災が起きた後、
世界中が驚いたのは
被災後、日本では
略奪行為が殆どなかったことでした。
そうです。
あのような大災害が起き
行政がすぐに機能しない、
あるいは警察が機能しなくなると、
世界の他の国であれば
略奪行為は当たり前で
我先に店を襲うでしょう。
ニュース映像でも
見たことがあると思います。
日本では、このような
事態は殆ど起きなかったのです。
さらには
避難所に自衛隊が来て
全国各地から
救援物資が届いた時にも、
避難している人たちが
整斉と並び、列を乱さず
順番に物資を受け取る姿が
マスコミを通じて
報道されました。
これにも、世界中が
感嘆の声をあげました。
世界の他の国々からの反応は
「自分たちの国なら、こんな
ひどい災害があれば国民は
我先に物資を奪うだろう。」
「何で日本人は、ここまで
きちんと列を保って、
冷静に我慢できるんだ?」
と、驚きの声をあげたのです。
反日色の濃い中国の
インターネット上の反応ですら、
私の記憶ですが
「日本は我が国の50年先を
行っている。見習うべきだ。」
と称賛と感嘆の声が
あったのを私は覚えています。
そうなのです。
日本人の規範意識、
公序良俗を保とうとする民度の高さ、
あるいは周囲のことも考えて
自身の欲望をセーブする力は
このような
危機にあっても健在でした。
略奪行為や
我先に列を乱してでも
物資を取りに行く、等の
行為は愚かで恥ずべきもの、
という制御が効くように
なっているのです。
危機に際しては、
民衆の本性がでますが、
日本人が見せた
姿勢・行動は立派であり
世界最高水準の意識レベルだ
と私は思います。
こうした日本人の底力を
私たちは信じていい、と
思いますし、まだまだ
「日本は捨てたもんじゃない」
と感じてほしいのです。
(2019年4月以降には
今現在でも100万人以上いる
外国人に加え、
毎年日本に30万人以上の
外国人を、
人手不足を補うべく
しかも下手をすると
「反日意識」の高い国々から
大勢移住・導入させる
試みが始まりますが、
外国人が増え過ぎると
果たして大丈夫なのか、
やや不安ではあります。)
【2.反日マスコミが報じない、自衛隊の素晴らしい判断と行動】
東日本大震災の初動指揮を執った、
当時の陸上幕僚長陸将
火箱芳文(ひばこよしふみ)氏の
素晴らしい判断と決断ぶりを
紹介したいと思います。
(反日親中派のマスコミは
こうした自衛隊の
素晴らしい活動を
まず報道しません。)
2011年3月11日14時46分、
陸幕長 火箱氏は市ヶ谷防衛省で、
幹部会議に出席していたその時に、
突然東日本大震災発生しました。
その瞬間、火箱氏は直ちに、
東北方面総監にホットラインを繋ぎ、
「仙台はどういう状況か」と報告を求めると、
東北方面総監の第一声は
「陸幕長、やられました」だった。
「建てたばかりの庁舎との
継ぎ目から土煙が上がっており、
現在、停電。テレビも映りません」
この瞬間、
火箱氏は非常事態だと確信しました。
陸幕長火箱氏は
「東北方面隊全員に非常呼集。
全力で災害派遣に出動し、
海岸部の担当地域に向かえ。
津波警報が発令されているので注意せよ。
全国の部隊を速やかに集中し、増援する。
県知事からの要請など待たなくてよい。
ただちに出動せよ!」
「東北へ急行しろ、責任は俺がとる」
と言う第一声のもとに、
上司の指揮を受けることなく、
当時の陸上幕僚長・火箱芳文氏の
権限でいち早く東北方面へ、
陸上自衛隊派遣を決定したのです。
東日本大震災発生直後の
初動の指揮を電話で行い、
受話器を置いた瞬間
「オレも、これでクビだな」
とつぶやいたそうです。
なぜこのような指揮を執ったか、
それは、阪神淡路大震災の時に、
県知事からの出動要請を受けてから、
自衛隊が災害派遣したため、
派遣が遅れ、その結果、
火災などの被害が拡大し、
救えたはずの命を
救えなかったことを教訓に、
大規模災害の際には
都道府県知事からの
要請を待たず部隊を派遣する、
自衛隊の「自主派遣」が
明確化されたのです。
ただし、
この「自主派遣」をするためには、
実際上、総理大臣もしくは
防衛大臣の指示により行なわれるものです。
しかし、火箱氏は
未曽有の大震災の危機から
国民を救うため、
一切の責任を負う覚悟で行動に移ったのです。
この瞬間から、
火箱氏は今の自衛隊には存在しない
「陸上総隊司令官」
として行動を起こしました。
九州から沖縄地方の
防衛を担当する西部方面総監に、
全陸自上自衛隊を東北に向けろ。
続いて、
関東、甲信越地方を管轄する
東部方面総監と連絡、
全軍を東北に向けろ、
北海道方面総監にも同じ指示を出したのです。
火箱氏が
各方面隊に電話指示が終わったのは、
震災発生のわずか、30分後の15時15分。
この、火箱氏の即断によって、
陸上自衛隊史上最大の作戦は、
地震発生から
わずか30分足らずで
全国の部隊に発令されたのです。
正に神業でした。
一人の勇気ある司令官が
越権行為だと
言われるかもしれない、
すなわちクビを覚悟で
「国民を守る」という使命を
身を捨てて示してくれた・・・
それが自衛隊でした。
私は火箱司令官の決断に
ナチスドイツに迫害される
ユダヤ人6000人の命を救った
外交官・杉原千畝のような
「大和魂(やまとだましい)」を
見たように感じました。
ちなみに私は、
震災時に仕事で福島県に応援に行きました。
(2011年の4月下旬だったと思います。)
津波被害に遭ったとある町での、
自衛隊隊員の
献身的な活動を見ました。
宮城県や岩手県には
ボランティアの方々は入りましたが、
原発事故のあった福島県は、
放射能被害を恐れて、
その町にはボランティアはいませんでした。
自衛隊の方々だけが頼りでした。
隊員の皆様が
埃と泥にまみれになりながら、
瓦礫を片付け、
遺体捜索されている懸命な姿、
避難所に物資を届け、
避難している人のために
お風呂まで用意した心遣いなど、
今も忘れられないです。
このように国民のために
献身的に活動してくれる
日本の自衛隊を誇りに思います。
【3.世界に誇れる日本の鉄道の底力】
あの地震では
東北地方で「震度7」、
関東でも「震度6」の揺れが
あったにもかかわらず、
当時東北方面を走行していた新幹線
(JR東日本のホームページによると、
地震発生時に、東北新幹線は27本の
列車が営業運転中でした。)は、
何と1両も脱線しませんでした。
新幹線は
フルスピ-ドで走っていた場合、
ブレーキをかけてから
止まるまでの距離が
4キロも必要です。
もしも、脱線・転覆すれば
命に関わる大事故になります。
こんな大地震が
あったにもかかわらず、
脱線がなかったのは
世界に誇れることで、
ここにすばらしい技術が
存在していることを
あなたはご存知でしょうか?
なぜ、
時速200キロ以上もの
高速走行をしていたのに
脱線しなかったか?
JR各社はこの地震以前に、
地震波の性質(2つの波
があり、初期微動P波が
先に来る。次にあとから
大きな揺れを伴うS波が
やってくる)を利用した
ある装置を開発し、
地震波を感知すると同時に、
送電を止めて
新幹線を止める仕組みを
完成させていたのです。
それが「早期地震検知システム」でした。
その海岸地震計が
いち早く揺れ(P波)を検知し、
大きな揺れ(S波)が到達する
数秒前から
列車への電力供給を遮断。
自動的に非常ブレーキがかかり、
全列車が緊急停車したことで
脱線を防くことができたのです。
(東北新幹線の場合、
東京-新青森間には
現在、50カ所の地震計が
設置してある他、
太平洋岸に9カ所、
日本海岸に6カ所の
沿岸地震計があるとのこと。)
ちなみに、
この早期地震検知システムは
現在ではJRの在来線のみならず
大手私鉄などにも
導入されています。
(2018年6月18日の朝8時に
発生した大阪府北部の高槻市
あたりを震源とする震度6弱
の地震では、地震があった時は
通勤ラッシュの時間帯でした。
ですが、
JRは新幹線・在来線
そして大手私鉄とも
1社たりとも
脱線・転覆しませんでした。
このシステムがあったために
事故を防げたのです。)
それだけではありません。
東日本大震災では
被災後の復旧のスピードが
世界中を「あっ」と言わせました。
この地震では
東北新幹線のレールのうち
全長530キロにわたり、
1750カ所が被災しました。
特に、広範囲に渡り
540本も倒れた電化柱(架線を張る電柱)
の再建や、ゆがんだレールの復旧等、
それに必要な資材が不足し
調達に困難を極めたそうです。
後日、
TBSの報道番組「朝ずばっ!」で
東北新幹線が復旧したその朝、
アナウンサーが
「ドイツの鉄道関係者が、
現地の直後の被災状況を見て、
『我が国であれば復旧に2年はかかる』
と申しておりました。」と、
どれだけ大変な状態だったか
を説明していたのを
私はハッキリと覚えています。
では、東北新幹線は
復旧にどれくらい期間がかかったか?
ダイヤモンド社が出版している
「日本の新幹線『世界最強』の理由」
によると、
当時東北新幹線の復旧のために、
日本中のJR各社からの鉄道マンらの
集結・応援がありました。
加えて、京浜急行電鉄らの
私鉄各社の社員までもが
応援に入ったといいます。
特に、
日本全国で9台しかない
電化柱をたてる特殊トラックも
全て動員されました。
これは本当にすごいことです。
このように、
全私鉄の鉄道マンらの
不眠不休の努力と協力により、
震災発生からわずか
49日目で復旧するのです。
しかも、人の動きの多い
ゴールデンウィーク前の
4月の下旬に間に合わせたのです。
これには、世界中から
賞賛の声があがりました。
技術力のあるドイツからみて
2年はかかるだろうという状況を、
2ヶ月弱の超スピードで
克服・復旧したからです。
日本の鉄道マンの技術と、
復旧にかける仕事ぶり、
不眠不休の献身的熱意は
本当に世界一だと思いますね。
こうした日本の底力も
世界に誇れるものです。
【4.地震に耐えた日本の原発】
私は、仕事の関係で
被災した地域の応援として
地震被害に遭った
福島県に応援出張しました。
時期は4月20日ぐらいから
ゴールデンウィークに入る前
までの期間、宿泊出張しました。
(応援中に、東北新幹線が
全線復旧したニュースが
入り、雰囲気が少し明るく
なったことも肌で感じました。)
被災現場も数多く見ました。
私も実際に、
福島県の某町の津波の
現場を見てショックを受けた
記憶があります。
これはTV画面では感じられない
底知れぬ恐怖を覚えました。
多くのお客様とも話をしました。
福島の方々が口にするのは
「地震・津波は仕方がないが、
あの原発事故さえなければなあ」でした。
放射能で汚染された
福島県浪江町には
2018年3月でようやく
帰宅可能な状態になったと
ニュースで流れましたが、
いまだに多くの住民は
放射能を怖れて
戻ろうとはしません。
この事故で多くの日本人が、
「原発は大地震に弱い。」
「原発はやはり、危ないものだ。」
とネガティブな印象を持ったと
思います。
しかしながら、
実はそうではないのです。
2017年にNHKが
福島の原発事故の再現を
特集していました。
それを見るとわかりますが、
福島第一原発は
震度7の揺れに耐えているのです。
つまり、
日本の原子力発電の
技術は大したもので、
震度7に耐えうるのです。
ではなぜ、
放射能漏れ事故が起きたのか?
それは、
地震の後に来た津波によって、
やられてしまったのが真相です。
具体的には
津波で原子力発電所の
全電源が失われたからです。
冷却すべき燃料棒を
制御できなくなり、
メルトダウンを起こしてしまった
というのが真実なのです。
では
津波は防ぎきれなかった
不可抗力だったのか?
といえば私は違うと思います。
(東京電力の幹部・経営者達は
不可抗力を主張し続けていますが。)
私は、
今回の事故は東京電力の
人災だ、と考えております。
福島第一原発のある
高さまで届く大きな津波は
あっても1000年に1回ぐらいと
タカをくくっていたため、
東京電力は原発を囲むような
大きな防波堤を作りませんでした。
実際には
社内の経営幹部会議で
1000年に一度ではなく
もう少し短いスパンで
大きな津波がくる可能性を
統計資料等で知っていたのです。
地質学的な調査をすれば
あるいは歴史を紐解けば
百年単位ぐらいごとに
福島や宮城県に
大きな津波がくることは
わかっていたのです。
しかしながら、
防波堤を作るために
80~100億円かかることで
目先の利益圧迫になるとして
作りませんでした。
要するに株主から
「無駄な投資ではないか?」
「100年単位で来るような
いつくるかもしれない
津波に備える必要があるのか?」
と責められるのことを
経営幹部が怖れたためです。
(ここでも、サラリーマンの心に
巣くう「怖れ」が今回の
悲劇を招いた、と言えましょう。)
その費用をケチったことで
今や損害賠償や廃炉費用として
数千億円~最大8兆円も
つぎ込まねばならず、
東京電力は大きなツケを
払わざるを得ません。
80~100億円を
保険を買うつもりで
防波堤を用意していたら、
悲惨な放射能漏れ事故は
起きていませんでした。
むしろ
「日本の原発は地震に強い」
という逆の評価を世界中から
得ていたことでしょう。
その証拠に、大きな津波に
見舞われた宮城県の
女川原発(東北電力)は
14m以上の高台にあったことで
かろうじて津波の被害を免れました。
女川原発の非常電源の内、
3系統は破損しましたが
津波を直接かぶらなかったため
何とか1系統は生き残り、
これでメルトダウン事故を
見事に回避できています。
よって、この記事を読んだ方は
意外に思うかもしれませんが
実は、日本の原発は
大きな地震にも耐えうることを
知ってほしいのです。
だから、安倍総理は
インドなどの親日国に
自信をもって原発技術を
売り込んでいるのです。
原発技術が
大地震に耐えうることは
資源が乏しい日本にとって
大きなアドバンテージに
なると私は思います。
また、国内の海辺にある
原発がきちんと
津波対策ができていれば
すべてを再稼働することも
あり、と考える次第です。
【5.津波から村を守った大防潮堤】
この地震による津波で、
三陸海岸の村や港等は
すべて破壊されたイメージを
多くの日本人は持ちます。
しかし、そうではなく
大がかりな防潮堤を作ったことで
あの大津波から
見事に村を守りきった例が
あるのです。
あまり、知られていませんが
場所は、岩手県の三陸海岸の
普代(ふだい)村です。
漁業が盛んな人口約3000人の村に
震災当日の午後3時半すぎ、
巨大な津波が襲いかかりました。
この村の防潮堤の高さは
なんと15.5メートルです。
「高台から見ていましたが、
津波がものすごい勢いで港に押し寄せ、
漁船や加工工場を一気にのみ込みました。
バリバリという激しい音がして、
防潮堤に激突。みな祈るように
見ていましたが、波は1メートルほど
乗り越えただけで、約1000世帯が
住む集落までは来ませんでした」
(普代村漁協・太田則彦氏)
津波が来る前に、
港に船を見に行った男性が
行方不明になり、堤防の外の
漁船などは破壊されましたが、
防潮堤の内側にいた
住民の被害はゼロ。
住宅への被害も一切ありませんでした。
高さ15.5メートル、
全長130メートルの大「防潮堤」が、
村を救ったのです。
村の北側には、同じ高さの水門
(全長200メートル)があるが、
こちらも川を勢いよく上ってきた
津波をほぼはね返し、
小学校を守ったとのことです。
普代村の隣、田野畑村
(人口約4000人)には、
高さ8メートルの防潮堤が
2つあったのですが、
津波を抑えられず、
死者・行方不明者40人、
全半壊533戸の被害がでました。
高さ15.5メートル”もの
大防潮堤がなぜ普代村に
2つも造られたのでしょうか?
村役場住民課・三船雄三氏はこう説明します。
「防潮堤は1970年に
約6000万円(当時)
をかけて造りました。
水門は35億円(同)で、
1984年に完成しました。
普代村は
1896年の明治三陸大津波で
1010人の死者・行方不明者が出ました。
1933年の津波でも
約600人が死傷しました。
戦後、当時の和村幸徳村長が
『2度あることは3度あってはいかん』と
県にひたすらお願いし、
建設の運びとなった。
かなりの費用がかかるので、
当時は
『他のことに使えばいいのに』
『ここまでの高さは必要なの?』
といった批判も
たくさん受けましたよ(苦笑)。
きっと今は天国で
ホッとされている
のではないでしょうか」と。
この震災以降、
堤防に手を合わせたり、
故・和村村長の墓に線香を
供える人が
絶えないとのことです。
このように、
過去の教訓からきちんと
お金もかけて大堤防を建設し、
村と民を見事に守った
日本人がいたということは
知っておくべきでしょう。
東京電力の経営幹部に
普代村の和村村長のような
勇気と英断があれば、
あの放射能事故は防げたと
感じるのは私だけでしょうか。
このことからも、
海岸や島にある原発には
普代村を教訓として
大きな津波を想定し、
大防潮堤を築くことが必要である、
と私は考えます。
【6.震災が育んだボランティア精神】
2011年の
東日本大震災を契機に、
全国各地から
地震以外でも
大きな災害があれば
ボランティアの人達が
被災地に駆けつける光景が
みられるようになりました。
以降、
2016年4月の熊本地震でも、
2018年7月の西日本豪雨で
岡山や四国が被災した時にも
大勢のボランティアが
炎天下にもかかわらず
応援にきてくれました。
これも素晴らしいことです。
被災地では
特に、被災した家屋の
清掃・片付け・家具の出し入れは
もちろん、
避難所に運ばれる
物資等の配分や、
食事の世話などで
人手が足りなくなります。
それを、
長期間で無くとも
たとえ短期間でも
手伝おうという
ボランティアの人達が
休日を利用してでも
全国から集うように
なったことは
素晴らしいことだと
私は思います。
日本人に
自分の休みの時間を
返上してでも
人助けをやろう
という人達がいて、
他人に奉仕する、または
社会貢献しようという
精神がある・芽生えた
ということはまだまだ
日本も捨てたものではない、
と私は思います。
こうしてみれば
日本にはまだまだ「希望」と、
困難に立ち向かう「勇気」が
備わっていることが
認識できたと思います
がいかがでしょうか?
【7.LINEは 東日本大震災が生んだ】
2019年現在、
今や全世界で5億人が使っているLINE。
あなたも多分
使っているでしょう。
メールより見やすく
簡単に使いこなせる
便利なコミュニケーション
ツールとして。
これが生まれたきっかけが
実は東日本大震災だったことを
あなたはご存じでしょうか?
現・LINE株式会社の、
当時社長(CEO)だった
森川亮さんは
著書「シンプルに考える」(ダイヤモンド社)
の最初の部分に
こんなことを書いています。
「忘れられない光景があります。
2011年3月末-。
東日本大震災の直後、
社員の安全を最優先するために
東京オフィスの閉鎖を決定。
僕たち経営陣は福岡オフィスで
業務を継続するとともに
社員の安否確認を続けました。
そして、震災後の混乱が
収まりつつあった2週間後、
業務を再開すべく
東京オフィスを再開したときのことです。
正直いうと、僕は心配していました。
震災後の心労で
みんな疲れているのではないか、と。
しかし、それは全くの杞憂でした。
みんな、待ち望んでいたと言う様子で、
すごい集中力で仕事を始めたのです。
僕はその様子に目を見張る思いでした。
その中にLINEプロジェクトに
携わっている面々がいました。
2010年末、
「スマートフォンに特化したサービスを
開発しよう」という掛け声のもと、
社内で選抜された少数精鋭のチームです。
彼らは、市場調査を踏まえて
「スマートフォン・ユーザーが
求めているサービスは何か?」
について検討を重ね、
「ゲーム」「写真共有」
「コミュニケーション」の3つに
テーマを厳選。
さらに、この中から
どれか一つに絞り込んで
プロジェクトに着手しようと
していました。
ところが、その矢先に震災が発生。
彼らは、震災での自らの体験を下に
議論や分析を更に深めていきました。
そして、いま求められているサービスは
「クローズドなコミュニケーションだ」
と確信。
後にLINEと名付けられる
メッセージアプリの開発に着手したのです。
おそらく、震災後、
彼らは、家族や親類や友人達の
安否確認に心を砕いたはずです。
電話、メール、SNS・・・・。
あらゆる手段で連絡を取ろうとした。
そして、一部のネットリテラシーの
高いユーザーだけでなく、
「誰もが使いこなせる、もっと便利な
メッセージ・サービスが必要だ」と
切実に感じたに違い有りません。
だからこそ、
世の中が求めているサービスを
明確にイメージできたのでしょう。
一分一秒でも早くそれをカタチにして、
ユーザーに届けなければ・・・・。
そんな使命感に突き動かされていたのでは
ないか、と思います。
メンバーの多くは、殆ど家に帰らず
仕事をしていたようです。」
いかがでしょうか?
東北新幹線の、不眠不休の
超ハイスピードの復旧のみならず、
LINEの開発の裏にも
夜も殆ど家に帰らず、
世の人のために
必要なサービスを届けようとした
日本人達がいた・・・ということを
知っておいていい、と思います。
ここにも、いざという時には
不眠不休で頑張ろうとする
すごい日本人の底力を
私は見たように思います。
これは、
世界に誇れる精神、
「大和魂(やまとだましい)」
だと私は思えます。
本日は以上です。
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