近(現)代の歴史を振り返る7 スターリンとルーズベルトにはめられた日本 

「中高年サラリーマンの松下村塾」を
主宰する覚醒ナビゲーターの宮成です。

当塾では、主に
中高年のサラリーマンの方を念頭に
「組織を卒業し、自由と幸せを実現し
経済的にも潤いのある人生」
のあり方と、その方法論・知恵を
色んな切り口で紹介しております。

本日は、
その中でも重要な
歴史トピックで
参りたいと思います。

 

【1.二・二六事件とはどういう事件だったのか?】

本日は2月26日。

1936年のこの日、
ニ・ニ六事件が起こりました。
 
教科書で習うこの事件、
要するに一言でいうと
どんな事件だったか
あなたはわかりますか?

私は単なる日本国内の
軍部の権力争いぐらいに
思っておりました。

実はそうではないのです。


日本が
ソ連のスターリンの

悪意のある策謀に
だまされた日なのです。


この事件が
実は、
大東亜戦争(太平洋戦争)の

2つある引き金のうちの
大きな1つなのです。

それを私は
Facebookにメッセージ化しました。

「1936年の本日、二二六事件が起きた。
この事件で
反ソ連の「皇道派」が粛正され、
以降は
親ソ連の「統制派」が陸軍を牛耳って、
対米戦争に突き進む。
この事件の裏には
日米を衝突させ、
資本主義大国間で戦争をさせることで、
漁夫の利を狙う
ソ連・スターリンの二虎競食の計があった。
日本はまんまと
彼の術中にはまったのだ。」と。

詳しく解説しますね。
 

メッセージにも述べた通り、
この事件の背後には、
ソ連のスターリンの
深慮遠謀が働いています。

この真実を知る

日本人は
今も少ないと思います。
 

スターリンは非常に狡猾でした。

共産主義革命を

全世界に拡げると同時に、
強大な
資本主義国同士(日米)で、
つぶし合いを仕掛けるよう
仕向け、日本はまんまと
彼の策謀にはまったのです。

この手の軍略・策謀を
兵法では
「二虎競食の計」と申します。

実は、
日米を戦わそうと
考えていたのは
スターリンの
オリジナルアイデア
ではありません。

スターリンの師匠であり
ソ連を樹立した
レーニンのアイデアでした。
(1924年に死去しています。)

彼こそ策士でした。

「社会主義や共産主義を
世界中に広めるには、
単に共産主義の
すばらしい点を世界に
宣伝するだけでは足りない。」

資本主義国家同士で
戦争がおきて、
つぶしあいをして、

当事国が疲弊することが
共産主義革命を起こす近道
と、見抜いていたからです。

さすがは
帝政ロシアをつぶし、
ひっくり返しただけの
人物です。

しかも、その策で
日露戦争で母国ロシアが
日本に敗れた恨みも
晴らしてやろうとすら
考えていたようです。

スターリンは
師匠レーニンのやり方を
継承・発展させたのです。


【2.日本で起きた2つのイデオロギー対立】

 

日本では事件の前、
軍部内では
皇道派(反ソ連の考え。
自由市議陣営の米英とは戦争しない、
仮想敵国は共産主義を
拡げるソ連だとする一派。)
と、
統制派(親ソ連の考え。
共産主義に理想を感じることから、
ソ連とは戦わず、むしろ戦うなら
米英に対して、という一派)
の2つが権力争い(主導権争い)
をしていました。

なぜ、そのような
二派にわかれたのでしょう?

 

レーニンやスターリンは
コミンテルンを通じて
全世界各国に
共産党の支部を作り、
各国の内部に
共産主義や社会主義を広めるべく、
スパイ工作や
「共産主義は理想郷。
皆が平等で失業もない。
不況もないよ。」と
プロパガンダ工作をします。

(言論の自由はなく、
反政府分子は
秘密警察に取り締まられ
収容所送りになることは
一切伏せられていました。)

その目的は
資本主義国に
揺さぶりをかけ、
社会主義や共産主義革命を
世界中で引き起こし、
同盟国を創るためでした。

1936年当時、
社会主義や共産主義国は
まだ地球上にはソ連のみでした。

そのため、
資本主義陣営からは警戒され
「対ソ連包囲網」を
欧米列強と日本によって
形成されていました。

この包囲網を破るには
同盟国となる社会主義の
兄弟分を誕生させる必要に
ソ連は迫られていました。


その影響は日本にも及びます。

日本にも共産党ができます。
(戦時中は、治安維持法によって
弾圧されますが。)

1929年に世界大恐慌が
発生したことで
資本主義諸国には
大不況がやってきます。

広大な植民地をもつ
イギリス・アメリカ、
フランス・オランダは
ブロック関税を設定して
日本やドイツなどの
後発国の製品輸入を排除しました。

今、中国が
アメリカから10%の関税を
かけられてヒーヒー
言い出しておりますが、
1929年当時の
関税率は
そんな甘いものではなく
平均でも40%から50%
ありました。

日本に対しては
品目によっては
最大800%もの
関税をかけられました。

このため、
日本の経済は大打撃をうけ、
深刻な不況が訪れます。

日本の各地に
失業者が溢れるようになり、
特に農村は疲弊します。

こうなると、
どこの国もそうですが
共産党の
プロパガンダに踊らされて
結果平等主義で、かつ

失業がないとされる
「社会主義」
「共産主義」に
あこがれを抱く勢力が
勃興するんですね。

そんな状況でも我慢して
強大な「米英」陣営と戦争せずに
資本主義陣営にとどまろうとする
一派(皇道派)と、
「共産主義に不況はなく理想郷」
と信じ、
ソ連とは戦争せずに親しくし、
いずれは日本でも
共産主義革命を

起こそうとする一派(統制派)
日本の軍部内でも
分かれるようになったからです。


ニ.ニ六事件では、
最終的に
クーデターを起こそうとした
皇道派の将校らが
全員粛正されてしまいます。

その結果、
特に陸軍においては
統制派が権力の中枢を
握るようになりました。

結果、彼らは
「共産主義にシンパシーを感じる」
「だから、ソ連とは戦争しない」
「ブロック経済や金融封鎖などで
 日本を苦しめているのは米英だ」
「日本も、資源獲得と自衛のための
 植民地が必要だが、
 ソ連の領土は狙わず、
 米英仏蘭の植民地を奪いに行こう」

と、考えるようになったのです。

このようにみると、
スターリンの洗脳工作が
日本にも浸透し、
統制派が軍部を握ったことで
対「ソ連」ではなく、
対「米英」を敵国とする路線が
日本に固定化されてしまった
ことがわかりますよね。

一方のアメリカは
日本が1904年~05年の
日露戦争に勝利してからは
東洋の強国・日本を
非常に警戒するようになります。

オレンジ計画を策定し
日本を仮想敵国として
特に
「チャイナ市場」覇権をめぐって
いずれは
日本と争うことを想定して
準備を進めていました。

(日本人を狙い撃ちした
移民排斥法なども
1924年に制定し
アメリカは日本に対する
敵意を露わにしていきます。)

それを知っていたのか
レーニン時代から
日本とアメリカを戦わせて
ソ連は漁夫の利を得よう」
という方針を
ソ連は持っていました。

それを
一気に推し進めたのが
スターリンでした。

これが、私が
「日本はまんまと
スターリンの術中にはまった」と
解説する理由なのです。

(ちなみに、
現在の日本共産党も
ソ連時代からの
コミンテルンの系統を
ひいております。
そして、その目的が
資本主義陣国をかく乱して
かつては
共産主義革命を目指していた
という点で、私は今も
「要警戒政党」だと
思っております。)

【3.大東亜戦争に突き進んだもう一つの引き金とは?】

では、日本が
大東亜戦争(太平洋戦争)に
突き進むことになった
もう一つのトリガーについても
説明いたします。

近年、アメリカの元大統領
フーヴァー大統領によって、
隠された歴史真実を暴露した
すごい書籍が出されています。

タイトルはFreedom Betrayed」
邦訳すると「裏切られた自由」という書籍です。

2011年になって出版されました。

彼は、第31代目のアメリカ大統領でした。
(任期は1929年~1933年)

彼の次の
フランクリン・ルーズベルト大統領
の時代(任期1933年~1945年4月)
に、日米は戦争に突入するのですが、
フーヴァーは、後任の
ルーズベルト大統領こそ、
日米が戦争になった真犯人であり、
ルーズベルトが日本を
戦争するように追い込んだと
その書籍の中で「断罪」しているのです。


彼こそ、あの悲惨な戦争の

最大のトリガーともいうべき
日本にとっては憎き存在
なのです。

内容があまりに衝撃的・・いえ
アメリカにとって不利なので、
フーヴァーの死後、
遺族が出版を躊躇していました。

しかしながら、時を経て
遂に真実が世に出てきたのです。

(ちなみに、
 A級戦犯として死刑に処せられる
 ことになった東条英機首相は、
 刑が執行される前、
「開戦の真実は100年後の子孫が
 必ず解明してくれるはず」と
 予言しました。

 それゆえ家族には「一切語るなかれ」
 と、弁解を禁じる遺言を残しました。

 
    彼が処刑されてから66年目の
    2011年にこの書物が出て、
 その内容を今シェアしていることで
 東条英機の予言が徐々に現実に
 なろうとしていると感じます。)

終戦して間もない頃、
元・大統領のフーヴァーと
GHQのマッカーサー司令は
1946年5月4日から3日間にわたり
二人で以下のような対話をした、と
その書籍に記載されています。

しかも、驚くべきことに
フーヴァーはルーズベルトのことを
「戦争をやりたくてしょうがない、狂人
(マッド・マン)」だと記載し、
強烈に批判・糾弾しています。

ここで、当塾からアメリカの
当時の状況について解説を加えます。

当時のアメリカの最終目的は
列強各国も狙ったのと同様、
植民地としての中国市場獲得でした。

中国には当時、
満州や中国の主要部へ
日本が兵を出して
押さえていました。

日本が中国で得ている
利権は大きく魅力的に
アメリカには見えました。

アメリカの狙いは、
日本を完全に中国から追い出し、
アメリカの権益として強奪し、
大きく儲けたいというものでした。
(日清戦争後に三国干渉をしてきた
ロシア帝国の心境と酷似してます。)

そのため、
日本を仮想敵国としたのが
先ほど述べた
「オレンジ計画」という
国家戦略計画でした。

第1次大戦で戦場となり
疲弊・荒廃したヨーロッパと違い、
アメリカは戦場にならなかった分、
生産力・経済力・技術力・資源・
さらには人口・資金ともにあり、
日本と戦争を行っても勝てるだけの
兵員と国力がありました。

(写真は1941年開戦当時のニューヨークの写真)

一方で、
1929年に起きた
世界大恐慌により、
全世界が不景気になりました。
ルーズベルトが大統領に就任した
1933年時点では
アメリカは生産過剰になっており、
国内景気は
まだ回復していませんでした。

だぶついた設備をフル稼働させて、
余っている商品在庫を一掃し、
国内景気をよくするためにも
戦争が一番手っ取り早い
景気回復策だったと考えた・・・
と推測します。

恐慌はデフレ(不景気)を招きますが、
自国が戦場にさえならなければ
戦争はインフレ(好景気)を招くことは
経済法則としてよく知られていますので、
ルーズベルトはそれを狙ったのでしょう。

つまり、
巨大な中国市場&植民地獲得と、
アメリカ国内の景気回復という
2つのメリットをもたらす、
つまり一粒で
ダブル効果がある「劇薬」こそ、
日本との戦争・・・だったのです。

さらに言えば、
彼が就任する前の1924年には
アメリカで排日移民法も成立し、
日系人や日本人に対する
アメリカ人の感情も
悪化していたこともあり、
日本と戦争がやりたくて
ルーズベルトはうずうずしていました。

フーヴァー元大統領は
こう記しております。

「私(フーヴァー)は、
ダグラス・マッカーサー大将と
1946年5月4日の夕方に3時間、
5日の夕方に1時間、
そして6日の朝に1時間、
二人だけで話をした。
(中略)
私が、日本との戦争のすべてが
【戦争を開始したいという狂人】
(=フランクリン・ルーズベルトを指す)
の欲望であったと述べたところ、
マッカーサー大将も同意した。

また、私は続けて次のように言った。
『(開戦前の)1941年7月の日本に対する
制裁(これもルーズベルトの時代に発動)
は挑発的であったばかりでなく、
その制裁が解除されなければ、
自殺行為となると
わかっていても
日本が戦争を
せざるを得ない
状況に
追い込んだのだ。

制裁は殺戮と破壊以外のすべての
戦争行為を実現するものであり、
いかなる国といえども、
品格を重んじる国であれば
我慢できることではなかった』と述べた。
私(フーヴァー)がそう(制裁のことを)
言うと、この私の発言にも
マッカーサーは同意した。

この制裁は、1941年7月末に
日本軍が南部仏印(フランス領のベトナム)
に軍をすすめ、サイゴンに
入城したことへの報復として、
米国にある日本の金融資産凍結と
対日石油全面輸出禁止の制裁を
行ったことを指しています。

石油の輸入をアメリカに頼っていた
日本は、これで一気に苦しくなります。

(この金融制裁と石油輸出禁止は
アメリカのみならず、イギリスと
オランダも同調します。
結果、米英蘭の3国とは事実上
貿易できない状況になり、
資源のない貿易立国日本は
滅亡の危機に追い込まれるのです。)

ご存じの通り、
石油は国家の「血液」であり、
これがないと軍艦も飛行機も
動かなくなるのです。
電力も工場もそうなります。

石油が底をつくと国家は死を迎えます。
そう、滅亡です。

こんな仕打ちをされたら、
まともな国なら我慢することは不可能、
日本は死を覚悟で、滅亡する前に
命を賭けて立ち上がるだろう、と

フーヴァーは情勢を見て
冷静に分析しているんですね。

そういう意味で
日本がアメリカに仕掛けた戦争は
「滅亡覚悟の止むに止まれず」の
自衛戦争だった・・といえます。
最初から領土的野心や、
植民地化することを主目的とした
侵略戦争ではないのです。

これは日露戦争と同じですね。
日露戦争も開戦したのは日本から
ですが、これも待っていては
ロシアに滅ぼされるので
「滅亡覚悟の止むに止まれず」の
自衛戦争でした。

さらにフーヴァーはこう述べています。

「ルーズベルトが犯した巨大な誤りは、
1941年7月、つまりスターリンと
隠然たる同盟関係になった

その1か月後に日本に対して
全面的な経済制裁を行ったことである。
その経済制裁は、
弾こそ撃っていなかったが
本質的には戦争であった。
ルーズベルトは、
自分の腹心の部下からも、再三にわたり
そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ、
日本が報復のための戦争を引き起こす
ことになると、警告を受けていた。

この制裁で
追い込まれた日本ですが、
この制裁が発動される前から
具体的には1941年の春頃から
外交上の譲歩をしてでも、
日本はアメリカとの戦争だけは
何とか回避したいと、
和平の道を必死に探って、
交渉を繰り返していました。

(決して日本が好戦的というのでも
ありません。好んでアメリカに
戦争をしかけたのではないのです。)

しかし、日本と戦争をしたくて
仕方がないルーズベルト大統領は、
日本の平身低頭の譲歩案を
すべて拒否していきます。

戦争ありき、だったのです。

1941年9月、近衛文麿首相は
駐日アメリカ大使と会談します。

そして、
自ら渡米して日米首脳会談をし、
ルーズベルト大統領と直接会って
戦争回避の道を話し合いたいと
願い出ます。

しかしながら、ルーズベルト大統領は
妥協ではなく力によって日本を
封じ込めるべきだとして
日米首脳会談を事実上、拒否します。

この時の近衛文麿が用意していた
和平提案は、アメリカの要望を
殆ど鵜呑みにする内容でした。

当時、満州は日本にとって
最後の生命線(自国の商品を
買ってくれ、資源を得られる
地域という点で)でしたが、
その満州についても
アメリカの権益につき便宜を
図ってもよいという打診まで
盛り込んでいたからです。

フーヴァーはこう書籍に記しています。

「1941年9月の
近衛首相の和平提案は、
東京にいる駐日アメリカ大使も、
駐日イギリス大使も、
祈るような気持ちで
その実現を期待していた。」

「近衛首相が提案した条件は、
満州返還を除く、すべて
アメリカの目的を達するものであった。
しかも、満州返還ですら、
交渉して議論する余地を残していた。
皮肉なものの見方をする人ならば、
ルーズベルトは満州という
この重要でない問題を契機に
もっと大きな戦争を引き起こしたいと
思い、しかも満州を共産ロシアに
与えようとしたのでは、
と考えるだろう。」

日本にしてみれば
「最後の生命線の植民地(満州)にも
 アメリカの権益を(相互互恵に繋がる施策)
 認めることも
考えるから、
 何とか戦争だけは勘弁してください。
と、平身低頭・ほぼ全面降伏の如く
戦争回避をお願いしているのですが、
ルーズベルト大統領は
戦争をやりたくて仕方がないので
全部拒否しました。

それでも日本は、諦めずに
和平のチャンスを探ります。
それは昭和天皇のアイデアでした。

このまま行き詰まって
日米が戦争になるより、
両国で少し冷却期間を置くという
最後の提案をします。

この狙いは
冷却期間中にひょっとしたら
国際情勢が変わるかもしれない。

そうなると、両国にとっての
和平の糸口も見つかるかも
しれない、というものでした。

この提案がされたのは開戦直前の
1941年11月でした。

フーヴァーの書籍には
次のような記載があります。
「日本の天皇陛下は、
1941年11月に
駐日アメリカ大使を通じて、
行き詰まった日米交渉において
3ヶ月間の冷却期間をおいてはどうか
という提案をされた。しかしながら、
ルーズベルトはこの提案も拒否した。

日本の、戦争回避への思い・誠意は
悲しいことに完全に無視されました。


しかし、それだけではありませんでした。

【4.ハル・ノートが日本に開戦を決意させた!】

アメリカは昭和天皇の、
何とか戦争回避したい思いを
完全に無視するどころか、
日本に対して「導火線に
火を付ける最後通達」を
無慈悲に突きつけます。

それが「ハル・ノート」でした。
(当時の国務長官、コーデル・ハルが
日本側に示した覚え書き(通牒)です。)

昭和天皇からの提案を蹴った直後、
1941年11月26日に届いた
「ハル・ノート」には以下のような
対日要求内容が書かれてありました。

(1)1940年に日独伊で結んだ
   三国同盟を破棄せよ。
(2)中国・満州・仏印(ベトナム、
   ラオス、カンボジア)から
   すべての日本軍を引き上げよ。
(3)中国では、蒋介石政権以外の
   政府を認めるな。

どういうことか、解説します。

(1)を認めると、既に連合国側と
   対立関係にあった日本は
   国際社会で丸裸になります。
   同盟国がいなくなり孤立無援、
   助けてくれる国が無い状態に
   なるのです。

   つまり、  
  「裸になって、一人になれ!」
  「列強のどこかの国がいつでも
   日本をなぶり殺しできるように
。」
   と、アメリカから
   命令されているのと同じでした。

(2)イギリス・アメリカ、フランスは
   広大な植民地を持ち、
   1929年に発生した
   世界恐慌以降の不景気を乗り切るべく
   当時はブロック経済圏を形成し、
   自国の商品を
   植民地に売りつけていました。

   しかしながら、
   非常に高い関税障壁を設けて
   日本などのブロック外の
   他国からの商品を
   保護主義的に排除していました。
  
  (現代であれば、不景気時に
   保護貿易を強化すると
   貿易量が激減し、却って
   景気が悪化することが
   経験上わかっていますが、
   当時の列強各国の経済知識や能力は、
   まだそのレベルに到達していません。
   結果、近視眼的な保護主義政策を
   ハンドリングをしていたのです。)   
   
   つまり、
  「日本からの商品は買わない」
   としていました。
   
   それだけのみならず、
   連合国側はABCD包囲網を形成して
  「日本には石油や鉄を売らない」
   という経済封鎖をしました。
   
    日本の商品を買わない、
   日本には資源を売らない、
   となると

   生き延びるための自衛措置として
   日本は商品を買ってくれる
   市場と
資源を
   手に入れる土地や国を

   実力で奪いに行く
   必要に迫られます。

   そのままでは自国民が
   飢えて死んでしまうからです。
   
   よって、
   やむを得ず出兵を行ったのです。
   侵略を目的としているのでは無く
   生き延びるため、自衛のためです。
   
   そのために、占領した地域が
   中国・満州・仏印(ベトナム、ラオス、
   カンボジア)でした。

   しかし、そこから
   すべて軍を引き上げよ、ということは
   日本の生存に必要な市場と
   資源獲得の場をすべて「手放せ」と
   命令されていることと同じです。
   
   「資源のない日本は
   さっさと飢えて死ね!」と
   アメリカから
   命令
されているのと同じです。  
 
(3)蒋介石以外認めるな、というのは
   どういうことか?というと
   中国に進出した日本は、
   親日的な汪兆銘を応援していたのです。
   彼を南京に据えて傀儡政権を
   日本は創っていたのですが、
   「汪兆銘を応援するな。認めるな。」
   と、アメリカは命令しているのです。

   これは
  「中国の一切の権益から日本は手を引け!」

   と言われているのと同じでした。

この「ハル・ノート」に関して、
インドのパール判事は
アメリカ政府から日本政府に送ったものと
 同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、
 ルクセンブルク大公国(のような小国)
 でさえも、アメリカに対して
 武器をとって立ち上がったであろう」と
評価しています。

また、
アメリカのハミルトン・フィッシュという
下院議員も「誰がどうみても
ハル・ノートは
宣戦布告そのもの。
これを突きつけられたら

どこの国でも開戦せざるを得ない。
ルーズベルトは国民を欺いた!」と激怒しました。 
(ちなみに、彼がハル・ノートの存在とその内容を
知るのは開戦後しばらくたってからです。)

事態はここに至り、万事休すとなります。

平身低頭だった日本側も
さすがに堪忍袋の緒が切れます。
そして
「これはアメリカからの最後通牒だな」
と、受け止めます。

そして、日本は
資源を求めてさらに市場と土地を
獲得しないことには滅亡するため、
「武力行使をしてでも、
 資源のある国や地域を取りに行こう」
「そうなれば、アメリカは黙っていないだろう。」
「アメリカとの開戦やむなし!」
「開戦となれば、まずは先制攻撃で
 アメリカ軍の主力・太平洋艦隊の
 基地を叩かねば。ハワイの真珠湾を。」
「先手必勝!」と、決断するのです。

それが、1941年12月8日の
真珠湾攻撃となるのです。
(ハル・ノートが届いたのは11月26日。
その約2週間後に開戦したんですね。)

ルーズベルトはこれだけ日本を
追い込み、たきつけておきながら
「最後通牒など出していない。
 まだ外交上の調整・交渉中だった。」と
アメリカ国民に対し、日本と交戦状態に
入る際に、このような虚偽の説明まで
やってます。(彼は「ハル・ノート」を
日本に突きつけたことを、
開戦当時、
アメリカ議会には内緒にしていたのです。)

加えて、
「リメンバー・パールハーバー」
(「真珠湾(
の犠牲)を忘れるな」)

という、あの有名なフレーズで
プロパガンダを行うのです。

「先に手を出したのは日本だ!」
「戦争を仕掛けられた!」
「憎い日本を倒すのだ!」と
自国民を騙して、
戦闘意欲をかきたてたのです。

本当にルーズベルトは
腹黒く、狡猾な人物だなあ、と
私は思いますね。

いかがですか?

ここまで追い込まれ、
いざ立ち上がると
悪者に仕立てられたのは我々だった・・・
というのが分かりましたか?
これが長年隠されてきた真実です。

ちなみに東京裁判では、
真珠湾攻撃を日本は宣戦布告前に
行った「だまし討ち」だとして
アメリカは日本を非難し、
戦後も
「日本はだまし討ちをした悪い国だ」
という宣伝がされました。

しかしながら、
戦争は宣戦布告後に
しかけるべき
という考え方は、
日本を罰するために

初めて東京裁判で
導入された基準でした。

それまでは、欧米のどの国も
いえ、世界中の国々は
戦争を開始してから宣戦布告を
行っていたので、だまし討ちを
したのは日本だけではありません。

アメリカは、それまでの戦争は
米西戦争など含めてすべて
事後での宣戦布告だったのです。

そうした自国の罪は棚上げにして
日本だけを悪く非難したことを
知っておいてください。

事態が開戦に至ったことにつき、
フーヴァー元大統領は、はっきりと
・日本は戦争を避けたかった、
・戦争を始めたのは日本ではない。
・ルーズベルトが常軌を逸している、
と述べ、かつ、
痛烈に
ルーズベルト批判を展開しているのです。

以上は、アメリカのトップだった
元・大統領からの告白・回顧録です。
しかも、客観的な歴史分析もできる
高い知性のある人物が書いています。

2011年に明らかになった
こうした歴史的真実は
非常に大きく、貴重ですね。

繰り返しますが、
日本は侵略戦争をしたくて
アメリカに真珠湾攻撃を
したのではないのです。

「窮鼠、猫をかむ」の状態に

日本を追い込んだのは
アメリカだったのです。

以上の真実を知って、あなたは
どう思いましたでしょうか?

これでもなお、あなたは
日本が侵略国家だと思いますか?
太平洋戦争(大東亜戦争)は、
まだ日本が悪かったと思いますか?

【5.神風特攻隊をアメリカ軍はたたえた】

ここで、
貴重な動画をお見せします。
戦争の終盤、
資源のない日本は神風特攻隊による
涙なしでは語れない
体当たり攻撃を敢行しました。

それに対して
何と敵軍であったアメリカ軍の
提督や、上級将校、さらには
欧州の知識人が讃えているのです。

そう書くとあなたは
「ええ?」と思った
かもしれませんが本当です。

こちらの動画をご覧ください。
私も最初見るまでは
「どんなもんだか」と、
いぶかりながら見始めましたが、
最後は
感動の涙がとまりませんでした。

https://www.buzzvideo.com/a/6652471961530139141?c=fb&app_id=1131&gid=6652471961530139141&impr_id=6661041644407638278&language=ja&region=jp&user_id=6451521699606168586&version=8.1.1&share_from=video_list

我々のご先祖様たちは
米ソの罠にはめられ、
資源も絶たれた中で
それこそ、祖国の地に
敵を踏ませないように、
家族を守るために、
尊い命を捨ててまで
最後まで立派に戦ったのです。

そこまでの
自己犠牲の勇気を見た時、
普段の我々の悩んでいることが
なんと
ちっぽけなことであろうと
思わざるを得ませんでした。

【6.スターリンの恐るべき実力とは?】

以上、長々と書きましたが
私からいえば、
大東亜戦争(太平洋戦争)では
日本は
「被害者」なのだという結論です。

当時の欧米列強の
国家間のどろどろした
野望・策謀に巻き込まれ、
米ソの悪意ある戦略の前に
してやられてしまったのです。

言い換えると、
日・米・
ソによる地球規模の
「グレートゲーム」
すなわち
国家の存亡が懸った
覇権争いに日本は敗れたのです。

日本は
スターリンの深慮遠謀の策
(共産主義という毒を飲まされ)
まんまとはまり、
(アメリカではなく、
ソ連を叩けばよかったのに
そうはせず、
資本主義国同士の共食いに
足を突っ込んでしまった)
次に
ルーズベルトの罠によって
悲惨な戦争に巻き込まれたという
この歴史的真実に
目覚めてほしいのです。

ちなみに
イギリスのチャーチル首相は
ドイツとの戦局を
逆転するためにも
当時中立を保っていた
アメリカの参戦を
強く望んでいました。

日本が
真珠湾攻撃をしかけて
喜んだのは
ルーズベルトだけでなく、実は
チャーチルも喜んでいたのです!

(彼の半生録の中にアメリカが
参戦を決めた時「これで勝てる。
我々は同じボートに乗った。」
と書いています。)

「ヤルタ会談 画像」の画像検索結果

すなわち、
有名な「ヤルタ会談」で
そろった3名の首脳は、
見事に裏でつるんでおり、
日本を戦争に巻き込んで
「にんまりしていた」
ということも
歴史の真実として
知っておくべきでしょう。

このように国際情勢の
真のウラの姿を知っておくことが
未来の日本を守ることにも
つながるのですから。

ちなみに、
戦後の歴史を見た時、
ルーズベルト、チャーチル、スターリンの
米・英・ソ連の
3者の中で一番得をしたのは
どこかだかわかりますか?

アメリカではありません。

アメリカは
日本と戦って勝利しましたが
アメリカだけで何十万人も
日本では300万以上もの人が死亡して
多大な損害がでました。

しかも、
ルーズベルトが
喉から手が出る程欲しかった
チャイナの市場は
結局手にすることは
できずじまいでした。

なぜなら、
日本が敗れたのち、
チャイナに登場し天下をとったのは
親米・資本主義政権の
中華民国ではなく、
反米・共産主義政権、
つまり、毛沢東の
中華人民共和国だったからです。


従って、ルーズベルトの野望も
達成できなかったのです。


実は、一番得をしたのは「ソ連」です。

なぜなら、
戦前には共産主義圏は
ソ連1か国しかなかったのに、
日本と米英が、
資本主義同士で
「共食い戦争」をやっている間に
アジアでは
チャイナや北朝鮮を共産主義化し、
(これによって、アメリカの
チャイナ市場進出を阻止
することに成功しました。)
ヨーロッパでは
ソ連が占領した東ヨーロッパの
諸国を衛星国(=事実上の植民地)にし、
全部その国々を共産化して、
ソ連の属国にしたからです。

その後も世界各地で
共産化の嵐が吹き荒れ、
一時は地球の半分くらいが
共産主義に飲み込まれようと
していたほどです。

そして戦後は、
イギリスが没落したことで
米ソ2大超大国による
「冷戦時代」を築き上げるほどの
強大な軍事国家に
ソ連はのし上がりました。

つまり、
「共産主義のプロパガンダを継続し」
「資本主義国同士で戦わせること」
この2つを冷徹に
成し遂げたスターリンの
深慮遠謀には、
チャーチルも、ルーズベルトも
かなわなかったと
言ってよいと思います。

スターリンは生前
ソ連国内で
2000万人とも4000万人とも
いわれる反乱分子を
粛清して独裁強権国家を
築きましたが、
外交や謀略においても
恐ろしく計算できる
世界的な実力者だったと
いえましょう。

【7.日本と戦って没落した大英帝国】

ちなみに、日本と戦って
一番損をしたのはイギリスです。

日本は、開戦当初の
1941年~1942年の夏までに
イギリス軍をインドを除く
すべての植民地から駆逐します。
(香港、シンガポール、マレー、ビルマなど)
かつ、大英帝国が
植民地支配のパワーとして誇っていた
東洋艦隊、インド洋艦隊を全滅させ、
イギリスの力を大きく削ぎました。

日本軍は強く、アメリカ軍や
フランス軍、オランダ軍も
次々に打ち破っていきました。

そして日本軍は
占領した地域の住民に
教育をしていきます。

軍隊の作り方や、
戦い方・文字・知識などを。
そうすることで各地域で
「自衛力」を養いました。

いつイギリス軍や
フランス軍が反撃して
くるかわからず、
現地で味方を増やそうと
したのですね。

しかしやがて、1945年
日本がアメリカに破れて
占領地域を手放します。

イギリス軍は再び
かつての宗主国として
植民地支配を行おうと
魔の手をそれらの地域に
伸ばします。

しかしながら、
日本軍に教育をつけてもらい
戦い方を覚えた
アジアの国々の人々は
今度はだまって植民地支配を
うけいれようとはせず、
抵抗運動・独立運動を
起こしていくのです。

たとえば
オランダの植民地だった
インドネシアでは
日本が占領してからは、
それまでの支配層だった
オランダ人を一掃し、
オランダ語や英語を使うことを禁止し
公用語として
現地のインドネシア語を復活させ、
虐げられていた現地人に
高い地位を与えます。(台湾でもそうです。)

インドネシア各地に学校を作り、
教育を施し、ホーコーカイ(奉公会)
などの組織を国内全土に作って
政治や軍事などの
国家の組織運営を学ばせます。

さらに、
日本軍が主導してPETA(ぺた)と呼ばれる
自衛軍兼義勇軍が組織されます。
そしてインドネシアの青年達を
PETAに入れて厳しい訓練を課し、
銃の使い方、戦闘機の操縦法まで教え
さらには規律、勇気を教えて
白人らとの戦いに備えさせました。

その初代将軍となった
スディールマン将軍は
日本軍の教育を受け、
軍服も日本風、日本刀も帯刀した
組織軍のリーダーとなります。
(後のスハルト大統領もPETA出身です。)

そして、日本が敗れ去った後
オランダが再度占領すべく
植民地化しようとしますが、
(これにイギリスも介入します。)
スディールマン将軍らが
オランダ軍・イギリス軍を排除し
(インドネシア独立戦争。1945年~49年)
インドネシアは独立に成功します。

(一部の日本兵は敗戦後もインドネシアに
残って、インドネシア独立戦争に義勇兵と
して参戦。残留日本兵1000人以上が
この独立戦争で亡くなったとのことです。)

このような動きがアジアでは
活発になって結果、イギリスは
1960年ぐらいまでに
アジアの植民地をすべて失います。

そして、
アジアの独立に触発された
アフリカの植民地も
一斉に独立運動を始め、
1980年代までには
イギリス・フランスは
すべてのアフリカの植民地を
失っていくのです。

これら、地球上から
植民地が消えたのは、
すべて日本が
アメリカやイギリスと戦った
影響によるものなのです。

日本が破竹の勢いで
開戦当初の1年弱で
米英仏蘭4か国の
アジアの植民地にいた
白人の艦隊を叩き潰し、
白人どもを残らず追い出し、
かつ、現地の人々に
戦い方や軍隊の作り方を
教えたからなのです。

日本のそういう種まきが
あったればこそ、
後にアジアの人たちは
再度、宗主国が
もう一度魔の手を伸ばした時に
それを振り払って
今後は自力で独立を
勝ち取っていったのです。


この真実こそ、GHQが

必死になって隠し、
日本人から遠ざけた情報なのです。

このことを
日本人が知れば
誇りと自信を取り戻され、
再び日本が強国になる可能性を、
戦勝国側GHQは
非常に恐れました。

「大東亜戦争」と
我々の先祖が読んでいた
戦争の呼び名には
「アジアを白人どもによる
植民地支配から解放する」
という意味を含んでいたため、
GHQは、その呼び名を使うことを
厳しい検閲によって禁じました。

そして「太平洋戦争」という
呼び名に強制的に変更させ、
いまだに
「大東亜戦争」という呼び名は
多くの放送局で放送禁止用語と
なっているのです。

さらには、戦後の
東京裁判では日本は
「侵略国だった」という
悪しきプロパガンダがなされ、
それが今も続いているのです。

本日は以上です。

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