50歳を過ぎて、ワクワク感を追いかけた伊能忠敬

当塾では、
中高年サラリーマンに目覚めて頂き
「最大限の自分自身を生きる人」に
近づけるヒント・情報を
それこそ様々な切り口で提供しております。

本日のテーマは
「好きなことを始めるのに年齢は関係ない」
ことを学びます。


【1.50歳を過ぎてからワクワク感を追った人物】

長い会社生活で
給料を得るために、
本当はやりたくない
ノルマをこなすべく
無理にでも自分を
叱咤激励してきたあなた。

上司から評価をもらうためにも
心の奥からは湧き出てこない
やる気を、表面的には
何とか出していたあなた。

かく言う私もそうでしたし、
今もそうしております。

そんなあなたに、
「その瞬間瞬間において、
自分が選べる選択枝の中で
特にワクワクすることを選んで
少しでも実行しましょう。」と
私はナビゲートしています。

無理やりのヤル気ではなく、
自然に湧いてくるワクワク感
あることを選んでやってみよう
という提案です。

中高年サラリーマンの
あなたにそう申し上げても
「もう年だから、今更遅い」
「ワクワク感なんて忘れたよ」
という方もいるでしょう。

実は、年齢は関係ありません。

50歳を過ぎてから、自分の
ワクワク感を追いかけて
遂には歴史に名を残した
日本人がおられます。

伊能忠敬こそ、その人です。
私の憧れの人です。

そう、日本史には必ず登場する
大日本沿海輿地全図を作った
あの伊能忠敬です。

彼は満50歳までは家業(酒や醤油
の醸造、貸金業)を、
しっかり果たしました。

そこで隠居し、息子に後を託し
自分の若い頃から興味のあった
算術や暦学の勉強を始めます。

暦学は今でいう天文学ですね。
何と満50歳からのスタートです。

伊能忠敬のすごいところは、
自分より19歳も若い暦学の先生、
高橋至時に師事して学ぶのです。

自分の息子のような年齢の
先生に学ぶことにメンツも恥も
捨てて一生懸命学んだのです。

そして、満55歳から17年間、
全国各地を丹念に測量し、
遂に現代の最新地図と
わずか1000分の1の誤差しかない
当時としては世界最高水準の
日本国土全図を作ったのです。

19世紀の江戸時代なら、
歌にもあるように人間五十年
生きればかなり長生きでした。

明治時代後半期の日本人の
平均余命が私の記憶では
確か37歳ぐらいのはずです。
江戸時代はもっと寿命が短いでしょう。

今の日本人の
平均余命が80歳台として、
現代の感覚で言えば
100歳ぐらいから、
自分のワクワク感を追いかけて
歴史に残る偉業を成し遂げたのが
伊能忠敬でした。

 

【2.地球の大きさを知りたかった!】 

伊能忠敬が満50才で隠居して後、
自分の若い頃から興味のあった
算術や暦学の勉強を始めた、
とお伝えしました。

彼が単なる数学や天文学
オタクで問題集ばかり
解いていたか?と言えば
決してそうではありません。

伊能忠敬が数学や天文学を
駆使しつつ、ワクワクして
追い求めたものは何か?

「地球の大きさを知りたかった」
というのが答えです。

伊能忠敬が生きた時代、
自分たちの住む大地は
丸いということを、当時の
知識人らは知っていました。

鎖国される前の戦国時代に
日本にきたキリスト教の宣教師達からも、
地球が丸いという情報が
もたらされていたからです。

地球の大きさ、すなわち
円周を割り出すためには
経度一度分の幅がどれくらい
あるか、二点間の距離を正しく
測量する必要があります。

そのために、数学と天文学の
勉強をしたのです。
地図の測量は、そうした
作業の延長線にありました。

結果、経度一度の幅が28里2分、
今でいう110.75キロと算出します。
これは、現代科学が算出している
110.85キロと、1000分の1の誤差
しかない、ものすごい精度です。

こうして伊能忠敬は
地球の円周を約40000キロ余り
と割り出すことに成功し、
夢を叶えたのでした。

「地球の大きさを知りたい」
このささやかなワクワク感を
年をとっても諦めず
子供のように追いかけたことが
結果として歴史的な
偉業にも繋がったのです。

中高年サラリーマンのあなた。
自分だけのささやかな
ワクワク感を求めて、
ほんの小さなことから
始めて見ませんか?

 

【3.ワクワク感の追求が日本を救った?】 

伊能忠敬の話をもう少し続けます。
「地球の大きさを知りたい」
という、ワクワク感を
年をとっても諦めず
子供のように追いかけ、
正確な日本地図作成に
繋がって歴史に名を残した
とお伝えしました。

伊能忠敬の功績について、
実は、我々日本国民に
あまり知らされていない
歴史秘話があるのを
中高年サラリーマンのあなた、
ご存知ですか?

私が伊能忠敬を尊敬するのは
単に高齢者になってからも
ワクワク感を追求したから、
だけではありません。

感動的な歴史秘話も
あるからなのです。

1853年、浦賀に
ペリー提督率いる4隻の
アメリカ合衆国の艦隊が
やってきて鎖国中の
日本に開国を迫った話は
「黒船来航」として
余りにも有名ですね。

アメリカは19世紀になると
世界最大の捕鯨国となっており、
7000隻もの捕鯨船を擁し
太平洋で鯨を取りまくっていました。

太平洋で捕鯨するために
捕鯨船に水や食料、燃料を
補給する港を求めて日本に
開国、開港を迫りました。

え?アメリカが捕鯨?
欧米人って捕鯨に反対のはずと、
思ったかもしれません。

アメリカ人やヨーロッパ人は
日本人のように鯨肉は食べません。

欲しかったのは鯨油でした。
鯨油は、石油エネルギーが
まだ開発されていない時代は
貴重な欧米人の物資でした。

電球が開発される前に
使われていたランプの燃料。

産業革命で広がり始めた
機械を動かすための潤滑油。

ロウソクの良質なロウの原料として、
鯨油はなくてはならない必需品でした。

話を戻しますね。

ペリー来航時点では
日米の軍事力を比較すると
特に、大砲の射程距離の点で
アメリカ艦隊の大砲の方が長く、
日本側の陸から打つ大砲の
射程を凌駕していました。

開国を迫るアメリカに対し、
すぐに決断できずに
躊躇していた江戸幕府に
要求を飲ませるために
ペリー提督はやろうと思えば

江戸湾(東京湾)深く艦隊を進めて
品川沖あたりから艦砲射撃をして、
江戸城の天守閣を破壊する。

一方、防戦に回る日本側の
陸に備わっている大砲は、
ペリー艦隊には届かない。

従って、天守閣を砕かれ
怖れ慄いた江戸幕府は1853年、
直ちに開国に応じたはず・・・
でしたが、なぜか、ペリーは
江戸城攻撃をしなかったのです。
(号砲を鳴らしたり、
威嚇行動はしました。)

開国要求を
強硬な態度でペリーが臨んだことで、
幕府から
「将軍が今、病気で伏せているため
重大な決定できない。
一年待って欲しい。」と回答が来ます。

普通であれば
「一年?ふざけるな!
待てない。すぐ決めろ!」
「ぐずぐずしているようなら
江戸城に砲弾を打ち込むが
それでもいいのか?」と
すごんでもよいはずです。
軍事力で優位だからです。

ですが、ペリーはこの回答に
了解して日本を去りました。
艦隊を引いたのです。

軍事力で上回っていたのに
ペリーは江戸城攻撃を
なぜ、しなかったのか?

実はそこに、伊能忠敬の功績が
大きく影響していたのです。

 

【4.ペリー、伊能忠敬に震え上がる】

ペリー提督が江戸城砲撃に踏み切れず
幕府の要請に応じて1年間の猶予を
認めて一旦引き上げた真の理由とは?

答えは、
①伊能忠敬の作った地図が
あまりに正確で、

②アメリカ合衆国側が
予想していた以上に、
日本が遙かに高度な文明国である
ことを知ったから、でした。

③高度な文明文化を
持っている国をなめて、
軽々に軍事介入したものの
反撃を受けた場合、
アメリカ側にも
 相当な被害が出るリスクを恐れた
 から、です。

この歴史秘話は、教科書では触れられません。

私は、このことは
日本国民が知るべき
素晴らしいエピソード
であると思います。

ペリー提督の軍事行動を、
伊能忠敬の功績が防ぎ、
日本を救ったといえるからです。

黒船艦隊4隻の突然の来航で
日本国内は大騒ぎとなり、
幕府が震え上がった一方で、
表向きは高圧的な態度で
開国要求をしていたペリー提督も、
心の底では
日本を恐れていた・・・
という事実は、
誠に面白いと感じます。

ペリーが伊能忠敬の地図を持っていた?
なんで?嘘でしょ?
と思った方がいるかもしれません。

アメリカ合衆国側が、
伊能忠敬の地図(写し)を
入手できた経緯は以下の通りです。

忠敬の大日本沿海輿地全図は
ペリー来航の32年前の
1821年に完成します。

江戸幕府は、日本の真なる姿が
表されたこの精密な地図を
国防上の機密に指定します。

同じ頃、長崎の出島には
ドイツ人医師のシーボルトが
日本に来ていました。

彼は西洋医学などの
当時の最新知識を携え
鳴滝塾を開設します。
そして、蘭学の教育にあたった
ことで有名ですよね。

シーボルトの有する先端知識・情報
(クールゼンシュタインの「世界周遊記」)
等を幕府側の天文方・書物奉行が
いただく代わりに、
日本の国家機密である
伊能忠敬の地図の縮図を
シーボルトに こそっと
(お礼として)渡したのです。

そのシーボルトが帰国する際、
所持品の中に
国外に持ち出し禁止のはずの
日本地図(の一部)が発見されます。

幕府は地図を返すよう要求しますが、
シーボルトは拒否します。

彼は出国停止および国外追放処分を
受けますが、結局は日本を脱出します。

(一方で、日本地図を漏洩した幕府側の
メンバーは当然、逮捕・投獄されました。
国家機密情報漏洩の重罪ですからね。
これが、歴史の教科書にもでている
1828年の「シーボルト事件」です。)

シーボルトはヨーロッパに帰国後、
日本滞在中に収集した日本文化や
情勢に関して記した研究の集大成
「日本」(全7巻)を完成させます。

この書籍の中に、彼が入手していた
日本の縮図も掲載されます。

ペリーらのアメリカ合衆国側は
この「日本」を来日前に入手し、
江戸幕府等の情報を研究していました。

ただし、掲載されていた日本地図は
あくまで概略図であり、
正確ではないと考えていました。

ペリー提督は、
艦隊を率いて来日し
号砲をぶっ放して
幕府側を脅しあげることと
同時平行で
日本の湾岸の地形の測量を開始します。

ところが、測量した結果、
シーボルトが書いた「日本」に
掲載されている縮図コピーと、
ペリーらが測量した地形とが
どんぴしゃり一致したのです。
(よって、すぐに測量作業を中止します。)

現在の水準からしても、
1000分の1の誤差しかない
日本地図ですから、
正確なのは当然です。

この事実に、
ペリーは度肝を抜かれました。

「日本に、
蒸気船がないことは知っていたが、
これほど正確な地図を
作成可能な国だとは・・・」
「それだけの力があるということは、
背後にある技術や学問・
文明水準も相当高いはず。」
「未開の弱小国だと侮って
戦いをしかけると、
手痛い目に合うぞ。やばい。」

と震え上がったのです。

だからこそ、
江戸城砲撃を思いとどまったのでした。

このエピソードを知ってどう思いましたか?

伊能忠敬が、満50歳をすぎて
「やりたいこと」「ワクワク感」を
追いかけた結果、その功績は
時を超え海を越えて、遂には
軍事侵攻から日本を守ってくれた・・・。

こんな感動秘話や歴史浪漫が
あったことを、中高年サラリーマンの
あなたに知ってもらえると幸いです。

本日は以上です。

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