中高年サラリーマンの覚醒ナビゲーター
宮成 純正です。
今回は当塾の
学習項目の大きな柱である
「歴史」について、
特に近代・明治維新や
日露戦争の話を5回にわたって
記事掲載したいと思います。
その中で私自身の歴史観を
披露できれば幸いです。
また、私が提唱する
「最大限の自分自身を生きる人」
になるには、日本人として
過去の歴史を振り返り、かつ
自虐的歴史観を払拭すべきだという
私の信念に基づいてお伝えします。
さらには
日本が日露戦争を通じて
実は、人類史上にものすごく大きな
影響を及ぼしたていることにも、
触れていきたいと思います。
なお、私がなぜここまで
日露戦争に深く解説するのか?
その理由は別のブログ記事を
ご参照ください。(下記リンク参照)
https://miyanari-jun.jp/2017/05/26/nichiro-war-history/
【1.明治維新以降の日本が果たした役割】
明治維新以降の
世界史における
日本が果たした役割を
振り返った時に
第2次世界大戦で勝利した
連合国側にとって
いや、白人たちにとって
不都合な真実が2つあります。
一つ目は、
欧米列強の帝国主義、
つまり植民地支配という
迫り来る危機を目の前にして
世界の有色人種でただ一国
日本だけが自力で
近代化に成功し、
危機に敢然と立ち向かい、
自衛のために戦った
という真実です。
(全世界が帝国主義時代という
地球レベルでの戦国時代では
自衛のために、資源のない日本は
朝鮮や中国、インドシナ方面に
進出せざるをえませんでした。)
二つ目は、
日露戦争と大東亜戦争は
単なる日本の自衛戦争にとどまらず
過去500年にわたる
白人によって全世界に広がった
悪しき植民地支配を
日本が打破したということです。
この2つの戦いで
アジアやアフリカで植民地支配に
苦しんでいた人々には
「黄色人種の日本が白人と堂々戦っている」
「自分たちもやれば白人に負けない」という
自信を与えました。
それが戦後、植民地だった国々の
独立戦争につながるのです。
実際に、アジアで
一旦日本の占領下に入った国々では
自国で防衛できるよう
現地の青年らを集めて
軍事訓練を日本軍が施しました。
第2次世界大戦終了後、
連合国側は再びアジアの
植民地支配を強化しようと
侵略を再開します。
が、日本に訓練と教育をうけた
現地人らが独立義勇軍を組織します。
結果、
アジアで多くの国々が
アメリカやイギリス、
フランスやオランダ
を駆逐して
独立を果たしていくのです。
最終的に地上から、
植民地支配を駆逐する
きっかけを
日本が作ったことが
わかると思います。
その意味では、大東亜戦争は
自衛戦を超えた
アジア解放戦争だった
と申してもよいかもしれません。
(東京裁判で負けた日本は
「侵略国家、戦犯」という烙印
を押され、われわれ日本人は
戦後そう洗脳されてきたため、
私がこのように説明すると
「違和感」を感じる人が多い
かもしれません。)
以上が連合国側が、
いや、今も
白人の方々が認めたくない、
隠しておきたい歴史的真実です。
https://miyanari-jun.jp/2018/08/26/war-guilt-information-program/
(そのあたりについて、
詳しくは「GHQが先の戦争で
日本人に植え付けた罪悪感」で説
明していますのでご参照ください。)
その真実を覆い隠して、
日本が戦争を
しかけたことによる
「侵略国家」の
側面だけを取り出して
東京裁判で
不名誉な烙印を押されたのです。
その部分だけ世界中に
喧伝されてしまっているのです。
(このことは、パール判事が
東京裁判でただ一人、勇気をもって
「日本は無罪」であると主張した名著
「日本無罪論」でも謳われています。)
【2.明治維新に遡る】
さて、ここからは
明治維新の話をしましょう。
時は今からちょうど150年前の
1868年に遡ります。
(この記事は2018年に書いております。)
日本が、明治維新を起こした
最大の理由は何でしょうか?
維新が起きる15年前、
1853年にペリー提督が
黒船を率いて来航。
圧倒的な武力と科学力に驚いて
早く欧米に急いで追いつこうと
したから、という回答では
100点満点中の65点です。
きっかけは
1840年~42年に
イギリスと中国(当時は清)
とで起きたアヘン戦争です。
その内容と結果に日本は
恐怖を覚えたからでした。
そこにペリーが追い打ちを
かけたというのが正解です。
隣国の中国が、イギリスによって
アヘン(麻薬)を持ち込まれ、
薬物で国民が汚染されるだけでなく
半植民地化され、
国全体が食い物にされていく
悲惨な状況を知ったからです。
アヘンを取り締って
麻薬患者をなくそうと
正しいことをしようとした
清朝に対して
アヘンの売り上げ収入を止められた
イギリスは怒って戦争を仕掛けます。
軍事力や科学力で劣る清軍は敗れ、
アヘンを引き続き
売り付けられることになりました。
中国の民衆はますます麻薬中毒に冒され、
結果、社会は崩壊寸前となりました。
そんな欧米列強が
日本にやってきたら
同じように植民地化され、
麻薬漬けになるか
奴隷にされてしまうという
情報を日本は入手しました。
鎖国体制下の江戸時代で
どうして中国の情報が
手に入ったのでしょう?
長崎の出島は開けていたことを
歴史で習いましたよね?
鎖国体制下でも出島では、
中国とオランダとは
交易をしていました。
この両国から、
アヘン戦争後の悲惨な
中国の状況情報が
もたらされていました。
それを知った、
後の勤王の志士たちは
幕藩体制(小さな藩が
乱立している状態)では
欧米列強に対抗できない
と考えます。
実際にペリー来航後の、
幕府の列強に対する動きが
弱腰に映ったことも
勤王の志士らに
怒りの火を付け、
一時は攘夷運動
(外国人排斥運動)
に繋がっていきます。
しかしながら、
「刀や鉄砲」で立ち向かっても
外国人には勝てないと気づきます。
欧米列強には
進んだ科学力で作られた
「大砲と黒船」、
さらには高度に訓練された
「近代的な軍隊」があるからです。
写真は下関戦争の時のものです。
1863年、長州はイギリス軍を
中心とする列強に敗れ、
守りの要だった砲台を
占領された時の写真です。
(桂小五郎ら、長州藩士は
この戦争でイギリス軍や
欧米列強の強さ・怖さを
嫌というほど思い知らされました。
薩英戦争でイギリスに負けた
薩摩も同様に学びます。)
弱い国を食い物にする
欧米列強に対抗できるだけの
軍事力・経済力・科学力を持つには
中央集権的な近代国家に
生まれ変わる必要がある、
と気づきます。
そのためには
攘夷ではなく開国して、
進んだ西洋の
思想や技術を取り入れねば
と、目覚めた日本の国内勢力
(薩長同盟を中心とした倒幕勢力)
が起こしたクーデター、
それが「明治維新」でした。
【3.龍馬は列強の恐ろしさを知っていた】
ここで、倒幕には欠かせない
薩長同盟を結ばせた
坂本龍馬について言及します。
名作「龍馬が行く」の中で
薩長に同盟を結ばせる
直前のシーンです。
長州藩のリーダー・桂小五郎が、
薩摩藩から禁門の変以降
受けた仕打ちに対する恨みから
「薩摩が頭を下げない限り、
こっちは頭をさげたくない。」
と同盟締結に一時躊躇する
場面があります。
そんな桂小五郎に
龍馬が確か
以下のようなことを述べて、
たしなめたと記憶します。
「まだその藩なるものの迷妄が覚めぬのか。
薩州がどうした、長州がなんじゃ。
要は日本ではないか。小五郎。」
NHK大河ドラマ「龍馬伝」では
福山雅治扮する竜馬が
確か次のようなセリフを言ったように
記憶しています。
「この同盟締結には、日本の
未来がかかっちゅう。(土佐弁)」
「同盟が成らずば倒幕はできず、
日本はのうなってしまう
(なくなってしまう)がじゃ。」
・・・間違っていたら申し訳ありません。
坂本龍馬は知っていました。
欧米列強諸国による
恐ろしい侵略の実態と
植民地化される危機が
日本に迫っていることを。
古い幕藩体制を壊し、
強力な国軍を持てるだけの
工業力と科学力が備わった
中央集権的近代国家を
作らない限り、
欧米に侵略されて
日本は滅亡してしまうという
危機感を持っていたのでした。
その龍馬の死後、
明治維新が成立。
江戸幕府による
約250年に渡る鎖国で
特に、政治制度・工業・
軍事・近代科学の
遅れを取り戻すため、
血のにじむような
(途中で1877年の
西南戦争のような、
新政府に反発する
旧・武士たちの内乱もあって、
実際に多くの血が流れました。)
自己変革を日本は始めました。
ちなみに西南戦争では、
今、大河ドラマで放送中の
維新三傑の一人である
西郷隆盛が旧・士族らの
不満を一身に背負って
非業の最期を遂げます。
そして、
欧米列強に対抗できる
近代的国軍を創設して、
植民地にされないための
防衛努力を開始します。
こうした近代化に自力で
19世紀に成功したのは、
白人以外の国では
日本一カ国だけでした。
今日、世界史で
こうした歴史的真実を
はっきり書いている教科書が
どれくらいあるでしょう?
あなたは、このことを
認識していましたか?
さほど認識していないのでは?
と思います。
実はこれこそが、
70年前に行われた
GHQの占領政策によって
歴史観の操作が行われた
影響によるものと
私は思っております。
【4.中国は近代化に失敗した】
中国でも
アヘン戦争に破れた教訓から
「洋務運動」という、
西洋科学や技術を導入をする
ことで国力増強を目指します。
しかしながら、 失敗します。
なぜでしょう?
この質問は
私の記憶が間違いなければ、
某大学の世界史の入学試験でも
出題されたことのある内容です。
理由は、
清朝の古い政治体制と
既得権益を残したまま、
科学技術のみ取り入れようとし
根本的な近代化を怠っためです。
【5.自力で近代化に成功した日本】
これに対して、 日本は
幕藩体制を廃藩置県で壊し、
士農工商などの身分制度は
四民平等を取り入れる等、
古い封建制時代の体制や
既得権益を
多大な犠牲を払って
近代的な中央集権国家に
改造すべく
ガラガラポンしました。
つまり、根本的な改革を
行える土壌を作った上で
西洋の思想や政治体制、
経済の仕組、税制、教育体制、
工業技術や軍事知識などを
国家を挙げて吸収しました。
いわゆる文明開花です。
近代的な中央集権国家に改造して
強力な国軍と、
それを支える国力があれば
欧米に対抗できることを、
白人以外で文明実験し、
証明した
地球上初の国が日本なのです。
白人らの欧米列強の
帝国主義に基づく
植民地獲得競争とは
地球規模での戦国時代であり、
国レベルの「群雄割拠」時代
と申して良いでしょう。
しかも、
群雄割拠状態に留まることはなく、
彼らは産業革命から生み出した
強大な軍事力を用いて、
黒人の住むアフリカや
黄色人種のいるアジアを
資源略奪の場に変えました。
アジアやアフリカの
多くの国で今も
モノカルチャ-経済と呼ばれる
プランテーション農園が
あちこちに見られますよね。
これも欧米列強が
現地民に単一作物を
大量・強制栽培させ
資源をほしいままに
略奪していた名残です。
さらには、植民地を
自国の商品を売りさばく
マーケットに変えてしまい、
好き放題を長年してきたのです。
それが植民地支配でした。
繰り返しますが
白人以外の人種・国で、
こうした侵略に立ち向かい、
近代化することで
植民地化を自力で防ぎ
独立を保ったのは日本だけ、
ということを知って下さい。
ちなみに、アジアで
植民地にされなかった 国が
もう一つだけあります。
それはタイです。
列強に立ち向かえる程強かったから、
植民地にされなかったのでしょうか?
いいえ。
タイはいつ植民地になっても
おかしくありませんでした。
欧米に対抗できる力は
タイにはありませんでした。
助かった理由は
インド(イギリスの植民地)と
インドシナ(フランスの植民地)に
挟まれた地理的条件に恵まれたからです。
「タイは緩衝地帯にして、
互いに手を出さないように
協定しましょう。」と
英仏両国が互いに侵略することを
たまたまやめてくれたからです。
【6.不平等条約にも耐え続けた日本】
日本が
欧米列強に植民地化されず
独立を守るために近代化を行い
立ち向かったと述べましたが、
その道のりは平たんではなく
誠に苦難に満ちたものでした。
我々子孫は、
今、命あることや
ご先祖様たちの苦労に
思いをはせるならば
敬意と誇りを持つべきと
私は思います。
例えば、ペリー来航以降、
武力に勝る列強から
開国を迫られ不平等条約を2つ
江戸幕府は押し付けられました。
歴史で習ったこと、覚えてますか?
一つは治外法権、
もう一つが関税自主権がなかったことです。
今では考えられませんよね。
治外法権とは、
日本国内にいる外国人の犯罪を、
日本政府が取り締まれない状態です。
誠にひどい話です。
国家の主権侵害もいいところですね。
もう一つは
海外から入ってくる商品に
関税をかける権利を、我が国が
持てない事態を指します。
これでは、自国の産業がなかなか
育たないし、保護できません。
欧米列強は、口先では
「通商条約を結ぼう」と
言いながら、治外法権とするわ
関税自主権は日本側に認めない等
明らかに武力で劣る
日本を見下していました。
それもそのはず。いつかは
日本を植民地にしてやろう
と狙っているわけですから。
では、この不平等条約はいつ撤廃できたか?
治外法権は1894年に撤廃できました。
(陸奥宗光がそれを実現します。)
しかしながら、
関税自主権の回復はずっとあとです。
日本がある列強国との
国家の存亡をかけた戦いに勝ち、
列強と対等なレベルにあると
国際的に認められた後でした。
(1911年に小村寿太郎が
実現いたします。)
明治維新1867年から
カウントして44年間も、
江戸幕府が締結してからは
何と50年もの間、
海外から入ってくる商品に
かける関税を、自国で決めては
ならないとされていたのです。
しかし、
江戸幕府が結んだ
不平等な条約であっても、
明治維新政府はその間、
忠実に国際条約を守りました。
我慢に我慢を重ねたのです。
その結果、日本は国際的に
「条約や約束を守る、信義に厚い国だ」と
信用もされていったのです。
このことが後に
日本を救うことになります。
2015年に
不可逆的な合意として
日本と国際条約を結んだものの、
もう反故にしているような
国際感覚ゼロの
どこかの国とは
全く違います。
不平等な条件に置かれても
明治維新政府や日本国民は
文句をいわずに、
必死に近代化と殖産興業、
近代軍隊育成(富国強兵)
に邁進していきます。
そうした努力を
日本がしている間に、
欧米列強が着々と
アジアにその勢力を広げてきました。
明治維新の頃、
中国はアヘン戦争で敗れていたため
イギリスに食い物にされていました。
同じ頃、
中央アジアやシベリア、
極東の沿海州にある大国が
侵略の魔の手を伸ばして来ました。
それはどこか?
【7.ロシア帝国の魔の手】
それはロシア帝国でした。
日本は、この大陸国家ロシア帝国と
ガチで戦うことになります。
え?ロシアが侵略していた?
そうです。
あまり知られていませんが、
かつて沿海州や中央アジアは
中国の清朝の版図に入っていました。
19世紀になって清朝が弱まると、
辺境にあたるそれらの地域を
ロシアが瞬く間に征服します。
元々、
中央アジアの国々は
トルコ系の騎馬民族が多く、
ロシアはその地域を
植民地にしていきます。
ロシア人がどんどん入植します。
余談ですが、
ロシア帝国崩壊後、
ソ連の時代になると、
植民地化した国では
母国語使用を禁止されます。
そしてロシア語を強制します。
恐怖政治で有名なスターリンは、
その国の民族を弱めるべく
反乱させないように
被支配民族をあちこちに
集団強制移動させました。
その結果、現在、それらの地域
(ウズベキスタンやカザフスタン、
キルギスタンなど)公用言語は
ロシア語になっているのです。
ロシア人は
被支配民族を追放し、
故郷の土地と言語を奪うという
文化破壊と暴挙を行なったのです。
しかも、奪った土地には
ロシア人を入植させたのでした。
さて、
話を江戸時代末期に戻します。
アリューシャン列島方面に
到達・進出したロシア帝国は
女帝エカチェリーナ2世の指示の下、
1792年にラスクマンを
根室に派遣します。
この時、幕府は
「長崎の出島しか開港していない。
来たければ長崎に来てくれ。」と
長崎への入港許可証を与えて
体よく追い返します。
次に1804年には
長崎にレザノフが来航します。
通商要求を幕府に迫ってきましたが
日本側は拒否しました。
そして、
1840年代のアヘン戦争以降、
衰退していく清朝では、
太平天国の乱や、アロー号事件
などが起きます。
そのどさくさに紛れて、
ロシア帝国は外満州や
沿海州のウラジオストックを
1860年までに
清朝から奪いました。
イギリスやアメリカも
恐ろしいのに、
侵略国家のロシアが
日本の向う岸に到達したのです。
かつて、日本海の対岸は
ツングース系の朝鮮民族の
土地だったのに、
気がついたら、白い肌の
ロシア人が目の前に
ドカドカとやってきたのです。
これは、日本にとっては衝撃でした。
特にウラジオストックという
港を得て、日本海にロシア軍が
ででくると日本には脅威です。
【8.朝鮮半島と満州が日本の防波堤】
明治維新で近代化を急ぐ一方で、
日本はイギリス、ロシアからの
防波堤を獲得すべく、
朝鮮半島や満州、さらには中国に
進出する道を選びます。
なぜ、朝鮮や満州に
進出することが防波堤になるか、
わかりますか?
ここがわからないと、
GHQや左翼の
「日本はかつて軍国主義を掲げ、
アジアを侵略した悪い国だ」という
宣伝文句に騙され、洗脳されます。
理由は日本には
資源とマーケットがないからです。
そして、欧州列強に
完全包囲されないための
勢力圏が欲しかったためです。
欧米列強と同様に、
近代化(工業化)を成し遂げるには、
鉄などの資源が必要です。
日本にはそうした資源も、
また作った工業製品を
販売・費消するだけの
国内市場がありませんでした。
(人口は明治維新当時で約3000万人で、
国民全体がまだ貧しい情勢でしたので、
例えば絹織物製品は一般国民は買えず、
富国のために海外に輸出しました。)
一方で、近隣諸国は次々に
植民地化されていきました。
日本も海外の植民地を求めて
打ってでないと、
資源もとれなくなります。
近代化に遅れ、
そのまま指をくわえみていると、
日本の周辺は
欧米勢力に完全に包囲されます。
当時、
全世界が帝国主義時代であり、
イギリスやロシアの侵略ぶりから
それはもう、明らかでした。
特にロシアの侵略の動きが露骨でした。
ロシアはご存じの通り、寒い国です。
緯度の高い場所にあるロシア国内の港は、
大半は冬に凍ってしまい、使えません。
ロシアは
帝国主義の拡大拠点として、
貿易を行う玄関として、
さらには
自国の海軍を置いて周辺の
制海権を握る基地として
「不凍港」が必要でした。
極東に進出したロシアは、
ウラジオストックという
沿海州の不凍港を
中国から手に入れますが
これだけでは満足しません。
次は朝鮮半島(当時は李氏朝鮮)を、
さらにはもっと南下して
中国(清朝)を中心部を取ろうと、
狙っていました。
これを「南下政策」といいます。
(1792年のラスクマンの根室寄港
も南下政策の一環でした。)
この南下政策を極東で進められると、
朝鮮半島や中国がやがて
ロシアの植民地になります。
必然的に、次は日本が
侵略のターゲットになることが
明らかでした。
明治維新(1868年)を成し遂げた時、
イギリスやアメリカのみならず、
ロシアにも狙われており、
日本は危急存亡の淵に
立たされていたのです。
【9.祖先は、生きるために立上がった】
つまり、
座して動かなければ、
日本は列強に攻め込まれ、
植民地にされてしまうのです。
早く自分達も、近代化すると同時に
列強の侵略を食い止める
壁となる植民地をとって、
列強に対抗できる勢力圏を
築こうとしたのです。
列強と同様、
自国で作った工業製品を買ってくれる
植民地市場(経済圏)の確保するため
の進出でもありました。
当時の世界情勢をみれば、
日本の打ってでた、
いわば侵略行為そのものが、
自衛行動であったという
ことがわかりますよね。
座して死を待つより、
何としても
生き残る道を選んだ。
この歴史的視点を忘れてはなりません。
この歴史的真実を無視して
「過去の日本のアジア進出は
侵略であり、謝罪し続けるべき」
とするのは完全な間違いです。
中国と韓国は、
それをわかっていて
敢えて東京裁判史観で
日本をいまだに
非難・牽制しているのです。
(侵略された側として、
文句をいいたいのはわかります。
しかし、中国も数千年間、
周辺諸国を侵略する側の
立場にありました。
それを棚上げし
日本の侵略だけ
悪くいうのは確信犯です。)
パール判事や
GHQのマッカーサー元帥が
日本が起こした戦争は
自衛戦争だと判断した理由は、
まさにそこにありました。
東京裁判では、その真実を消されて
日本の侵略行為にだけ
スポットが当たり、
連合国にとって都合のいい部分だけが
喧伝されたことを知らねばなりません。
【10.プーチン大統領と南下政策】
話が少しそれますがお許しください。
ロシア帝国は
ヨーロッパでも暖かい土地を狙って
アジアを侵略する前の18世紀から
オスマン・トルコ帝国と戦い
クリミア戦争や露土戦争を
繰り返しやっていました。
(さらに、バルカン半島でも
戦争を仕掛けていました。
世界史を学んだ人はご存知ですね。)
さて、ウクライナ地方の、
黒海のクリミア半島について述べます。
この地域は、有名な
エカチェリーナ二世時代に
ロシアが併合します。(18世紀後半)
これが、ロシアの南下政策の始め
と言われています。
狙いはやはり、不凍港でした。
不凍港は昔からロシアの宝なのです。
以来、欧州の大国として、
露骨に侵略と拡大路線をとり始めます。
そのクリミア半島にある
「セヴァストポリ」という港は、
今もロシア黒海艦隊の軍港です。
ロシアにとっては大切な
数少ない不凍港です。
黒海に面したこの地域は、
冬季オリンピックを開催した
ソチもこの地域にあり、
ロシアの中では
冬でも比較的 暖かい場所です。
海が凍らないのです。
従って、寒い時期においては、
ロシアのお金持ちや、
政治家たちは
保養地にしている場所です。
(日本では「避暑地」という
言葉がありましたが、ロシアは
冬が特に寒いので「避寒地」
として暖かい場所を権力者らは
求めているのですね。)
ロシアの現大統領である
プーチン大統領が、
2014年3月に国際秩序を
無視してまで、強引に
クリミア半島を併合した
真の理由もそこにあります。
クリミアを支配する
ウクライナ共和国が、
ヨーロッパ連合(EU)に
加わる気配を示しました。
これがプーチン大統領の
逆鱗に触れました。
ウクライナがもし、EU入ると
ロシア軍の黒海艦隊の拠点である
クリミア半島のセヴァストポリを
まるごとEU側にとられて
失うことを意味します。
それは、地中海方面のみならず、
ヨーロッパ世界に対し、
ロシアが圧力をかける手段を
失うことを意味します。
ロシアの国際政治力や
存在感が低下することを
黙って見過ごせなかった。
これがプーチン大統領の本音です。
ウクライナ共和国が従来通り、
ロシア寄りの路線であったなら、
クリミア併合という強行手段を
ロシアは取らなかったと
私は断言します。
が、最近のウクライナ政府
(特にロシア系住民が少ない
西半分の地域で。)はそうではなく、
反ロシアの姿勢を示し、
EUになびこうとしました。
放置していてはヤバいと、
プーチン大統領は判断したのです。
だからこそ、国際的に
非難されることを覚悟で、
プーチン大統領は軍事力で
クリミア併合に踏み切ったのです。
勿論、
アメリカのオバマ大統領(当時)は
及び腰だから、
ロシアに軍事力を行使しないと
したたかに計算済みです。
その証拠に、
ウクライナ全体を併合しようとはせず、
クリミア半島だけを併合したのは、
まさにセヴァストポリを
手放したくなかったからです。
そんなリスクを冒してまでも、
不凍港を失いたくないのです。
ロシアが、21世紀の今も、
不凍港にどれだけ重きを置いているか、
お判りいただけましたか?
不凍港は今も昔も
ロシアの宝物なのです。
「クリミア半島は、昔から
(エカチェリーナ二世時代から)
ロシアの領土だから」と
主張しているのは表向きの話で
実は南下政策の一環です。
その証拠に
ロシアはシリアの内戦に介入し
地中海に面した良港
タルトゥースをいまや
自国の軍港のように
使おうとしています。
クリミア半島のセヴァストポリ
のみならず、さらに南の不凍港・
地中海のタルトゥースまで握る。
こうすることで、ロシアの艦隊を
黒海から地中海で自由に航行させ
ヨーロッパ側のNATOに対抗し
再びにらみを利かそうと
しているのは明らかです。
つまり、プ-チン大統領は
エカチェリーナ2世以来の
ロシア帝国の南下政策の
後継者でもあるのです。
【11.ロシアの地球儀を俯瞰した野望】
さて、時代を戻しましょう。
江戸時代の末期の19世紀後半、
ロシアは南下政策を強く推進します。
黒海だけでなく、ロシア帝国は
オスマン・トルコ帝国をさらに攻めて
地中海(バルカン半島)方面の領土と
不凍港獲得を狙いました。
ところが、ロシアの南下と
領土拡大を恐れる他の列強各国
(イギリス、フランス等)が
オスマン・トルコ帝国を
応援するなどしたため、
南下政策がうまくいきません。
そこで、地球の別の地域で
南下政策実現を目論むのです。
一時は南アジアのインドや、
西アジアのペルシア(現在のイラン)
にも手を伸ばすのです。
インドとペルシアは、イギリスが
既に植民地にしていたので、
ロシアは衝突するようになります。
しかしながらイギリスは、
7つの海に覇権を唱えた、
当時世界最強の国家ゆえに
南アジアや西アジアでの
対英全面戦争をロシアは避けます。
では、どうしたか?
ロシアは
極東アジアに熱い視線を注ぎ、
ここで南下政策を
つまり不凍港獲得を
実現することを目論みます。
世界地図を見ると分かりますが、
ロシアはヨーロッパから極東まで
ユーラシア全てに跨がる大陸国家です。
(ロシアの東端から西端までは2万キロ弱
もあり、時差は11時間あります。)
そんな背景もあって、
ロシアの政治家や軍人は、
昔から常に
地球儀を俯瞰する発想で
「どこの国に手を出せるか?」
「不凍港を取れるとしたらどこだ?」
「寒い母国より、少しでも暖かい土地
を取れるにはどうしたら?」と
考えています。
これは、暖かい島国に育った
我々日本人にはない
「北の大国」ならではの
視点と発想ですよね。
ロシア帝国の
極東アジア侵略の野望を察知した
明治維新後の日本政府は、
自衛行動として朝鮮半島や
中国に進出する政策を選択しました。
そして、
ロシアの侵略と南下を
阻むことに努めるのです。
【12.ロシアと日本、利害対立へ】
こうして南下して
朝鮮半島と中国を狙おうとする
ロシア帝国の野望と、
日本の自衛策
=朝鮮半島や中国や満州への進出=
が、ガチでぶつかります。
維新政府が征韓論に傾き、
朝鮮半島で
影響力を行使し始めると、
沿海州のウラジオストックから
朝鮮半島を狙うロシアは
「日本は李氏朝鮮に兵を置くな」
などの圧力をかけてきました。
朝鮮半島の権益を巡っては、
日本はロシアを警戒しながら、
今度は
中国の清と戦うことになります。
そう、日本の周囲は
もはや敵だらけでした。
中国はアヘン戦争に敗れ、
列強各国から
食い物にされながらも、
「朝鮮半島は古来、中国の属国である。
よって日本には渡さない」と
意気込んでいました。
(当時の清の権力者は悪名高い西太后。)
それが、
1894年から95年に
かけての日清戦争です。
清は洋務運動をやって、
西洋からお金で艦隊などを
購入していたことから、
小国日本には勝てると
舐めていたようです。
結果は、
近代化をしっかり進めていた
日本軍が清軍を破ります。
(清の洋務運動=西洋化=は
根本的な体制変革ではなく
中途半端だったため失敗します。)
下関講和条約では、
日本は清から二億テールの純金を
賠償金として獲得し、
金本位制の経済的基盤を確立します。
他に領土として、
遼東半島、台湾などを獲得します。
このことが、欧米列強諸国に
強い警戒感を与えます。
特に、日本が得た遼東半島
(首都・北京の目と鼻の先に
位置する重要な場所)が、
ロシアは気に入りませんでした。
遼東半島には、
大連という重要な大都市や、
旅順という大きな軍港もあり、
ここを押さえることは
中国市場獲得と、中国中央部への
進出に非常に有利です。
ここを日本がとったことで、
中国での権益は
日本が先にとるだろう、
と恐れられました。
つまり、 南下政策の邪魔になると
ロシアは判断しました。
そこでロシアは、
日本にとんでもない
圧力をかけてくるのです。
それは
フランスとドイツを誘っての
三国干渉です。(1895年)
ズバリ、遼東半島を清朝に返せ、
というプレッシャーでした。
日本が清朝と下関講和条約を
結んでわずか6日後のことです。
日本は清には何とか勝てました。
しかしながら、
明治維新からまだ
30年も経過していないため、
近代国家建設の途上です。
列強のロシア・フランス・ドイツの
3ヶ国軍を相手に戦えるだけの
軍事力も国力も
まだ備わっていませんでした。
よって、
三国干渉をはねつける力が、
まだなかったため、
せっかく手に入れた
遼東半島を泣く泣く
手放して清朝に返します。
しかし、その後、
日本国民を激怒させる
情報がもたらされます。
返還したはずの遼東半島に
ロシアが進出したのです。
いや、奪われたのです。
半島にある
大都市の大連や旅順に
鉄道(敷設権を1896年獲得)を
ロシアは引きました。
また、旅順には、
ロシアの東洋艦隊を派遣し、
渤海湾の制海権を奪いました。
これは、完全に国際的な泥棒行為ですね。
後の1945年にも、
ソ連が国際法に違反して
日本の北方領土を強奪・占領します。
国家レベルでの泥棒です。
さらに言えば、実は
アメリカが止めなければ
北海道も取られていたかも
しれなかったのです。
つい最近では、上記で述べたように
プーチン大統領がクリミア半島を
国際法に違反して占領しました。
どうも、ロシアには古来
領土侵犯のDNAが
国家の泥棒体質として
綿々と受け継がれていると
見えるのは私だけでしょうか?
【13.日清戦争で清は脆さを露呈した】
話を戻しましょう。
ロシア帝国が
日本にプレッシャーをかけた
三国干渉の少し前。
19世紀後半、
アヘン戦争やアロー号事件などを契機に、
列強各国は中国の清を
徐々に、一部の租借地を得ながら
植民地化を進めていました。
しかしながら、
大規模な植民地拡大をしませんでした。
なぜでしょう?
理由は以下の通りです。
衰えたりとはいえ
清はまだ大国。
本気で怒らせると怖いと
思っていたからです。
清は、
中国特産のシルクや
陶器などの工芸品の貿易で
世界中から得た
巨万の富を有していました。
女傑皇帝西太后は、
その富を使って列強各国に対抗すべく、
洋務運動=西洋化=を開始。
列強から
世界有数の戦艦(定遠、鎮遠)等を購入。
大艦隊を揃えていました。
つまり、清が本気を出して
抵抗されるとやっかいだと
考えていたからです。
よって、列強各国は清を
「眠れる獅子」と呼んで警戒し、
大規模な植民地化せずに
じわじわと動いていました。
ところが、
日清戦争(1894〜95)で
弱小国と思われていた
日本に清が惨敗します。
清自慢の艦隊が、
保有する軍艦数や兵装で
圧倒的に優っていても、
軍内部の近代化や訓練も
不十分だったために
黄海海戦などで壊滅します。
陸上の戦いでも、
例えば旅順の要塞は
日本軍の攻撃によって
わずか一カ月で陥落します。
小国日本に敗れた姿を見て
列強は気づきました。
清は「眠れる獅子」ではなく、
「死せる(肥え太った)豚」だと。
西洋化を推進している
清の洋務運動も、
中身は不十分であると
露呈しました。
【14.中国が一気に分割されていく・・・】
よって、列強各国は、
日清戦争後に清を
本格的に植民地化する
ことを始めます。
1896年から98年にかけて
列強各国による
清の解体、中国分割が
一気に進みました。
そのやり方は、
租借地や鉱山採掘権、
鉄道敷設権の獲得という方法で
支配地域を広げていく
体のよい侵略行為でした。
イギリスは
長江流域や香港、
威海衛を勢力圏にしました。
(香港は99年間イギリスが支配し、
1997年になって中国に返還された
ことは記憶に新しいですね。)
フランスは
雲南、広東、広西省を勢力圏にし、
広州湾を占領しました。
ドイツは
山東省を勢力圏にし、青島を軍港にしました。
そして、ロシアです。
日本から盗み取った
遼東半島はもちろんのこと、
満州、モンゴル、トルキスタン
を広く獲得しました。
(ちなみにロシアの支配地域では、
支配者が ソ連になってからは、
地元民族の言葉や文字の使用を
禁じられ、ロシア語使用を
強要されます。)
日本は、日清戦争で獲得した
台湾を守るため、
対岸の福建省を勢力圏にしました。
中国進出に遅れたアメリカは、
1898年までにフィリピンや
ハワイを植民地にします。
そして、アメリカにも門戸を
解放せよと要求してきます。
このような世界情勢ですので、
植民地獲得競争の時代
=地球規模での戦国時代=
であったとわかりますね。
列強各国が仕掛けた
帝国主義時代とは、
まさに国家間の弱肉強食、
醜い生存競争の時代です。
だからこそ、
日本も打って出なければ
滅ぼされるか、
中国のようにケーキのように
切り取られ
植民地にされる時代だった
という世界情勢だったことを
忘れてはなりません。
特に、ロシアが日本に対して
仕掛けてきた三国干渉は
アジアでの南下政策の強化、
いや「極東を我が物にする」という
野心をあらわにしました。
三国干渉で遼東半島を
日本から横取りしたロシアは、
沿海州のウラジオストック〜朝鮮
〜遼東半島に渡る一帯を
押さえようとします。
狙いは中国中枢部でした。
この動きに、
日本政府は危機感を高めます。
ロシアの横暴を見逃していると、
沿海州から朝鮮、
次に中国本土中枢を
ロシアが牛耳ることになり、
日本はやがて
包囲されてしまうからです。
【15.日本を追い詰めるシベリア鉄道建設】
三国干渉(1895年)に加えて、
日本にとって
嫌な知らせがありました。
ロシア帝国内での、
シベリア鉄道の敷設開始
(1891年 日清戦争の開始前)です。
シベリア鉄道の建設が進むことは、
日本には非常な脅威でした。
なぜでしょうか?
シベリア鉄道ができるまで、
中央アジア(ヨーロッパから
中央アジア間は、既にロシアが
蒸気機関車による鉄道を建設済
でした。)と極東アジアを
結ぶ最速の交通機関は・・・
まだ「馬」でした。
これが鉄道にとってかわり
全線開通されてしまうと、
ヨーロッパ(首都サンクトペテルブルク)
から極東に、馬とは比較にならない程の
大量の兵員や、軍事物資が
短時間で運搬可能になります。
ちなみに、ロシア軍は
強かったのでしょうか?
あるいはその規模は、
どれぐらいだったでしょう?
19世紀初めには、
常勝ナポレオンが率いる
フランス軍を冬将軍を
味方にして破りました。
1850年代のクリミア戦争では、
オスマン・トルコ帝国に負けますが、
1870年代に起きた露土戦争で
オスマン・トルコ帝国に
見事リベンジします。
つまり、ヨーロッパで
しょっちゅう戦争をやっており、
ロシア軍は戦い慣れしていました。
ちなみに、
後の日露戦争開戦当初、
日本は国内を総動員しても
50万の軍勢を集めることが
限界でした。
一方のロシアは
総動員すれば何と200万、
予備役の兵力も投入すれば
最大400万の兵力を動員可能と
言われました。
実に日本の8倍の兵力です。
これは当時、
世界最大規模の陸軍でした。
近代戦にたけた大軍勢が、
鉄道で極東へ運ばれるようになれば、
日本が朝鮮や中国に
足場を作ったところで、
もう勝ち目はありません。
つまり、
シベリア鉄道開通=
日本に開国以来の大きな危機
=となって迫っていたのです。
ところで、
シベリア鉄道建設には
金がかかりますよね。
ロシアは自国だけでは
その資金を賄うことが
出来ませんでした。
そこで、ロシアは
フランスと同盟を結びます。(露仏同盟1894年)
鉄道建設推進に必要な
資金と技術の援助を
フランスから得るためです。
この同盟締結後、
シベリア鉄道建設工事の
ペースが上がります。
ちなみに、
この同盟国フランスを誘って
ロシアは日本に三国干渉
(1895年)を仕掛けてきたんですね。
それだけではありません。
三国干渉の翌年(1896年)、
ロシアは
日本から奪いとった遼東半島に
シベリア鉄道の支線として、
「東清鉄道」を敷設する権利を
清から(脅して)取得。
ここにも鉄道建設を開始します。
結果、1901年には
遼東半島の先端にある
旅順にシベリア鉄道の南部支線と、
東清鉄道が繋がります。
(ウラジオストックまでの
全線開通は1904年。)
そして、大連や旅順に
大量の軍事物資が届き出します。
ロシアは特に旅順を
中国支配の重要拠点と位置づけ、
旅順港の防衛力を強化します。
まず、
旅順港に極東艦隊を配置し、
ロシアは渤海湾の制海権を
手に入れます。
【16.ロシアは鉄道のみならず要塞を建設】
それだけではありません。
極東艦隊を守るために
旅順港を囲む山々に
強固に武装した永久要塞を、
当時の最先端技術で
作り出していきます。
これが旅順要塞です。
湾外に向けて強力な砲門を向け、
旅順港に敵を近づけないよう
建設を始めました。
この旅順要塞こそ、
後に
日本軍をとことん苦しめる
難攻不落の近代要塞でした。
旅順にロシアは、
陸軍2個師団を駐留させます。
そして、旅順要塞は着々と
工事が進んでいきます。
このまま完成してしまうと、
旅順港のロシア極東艦隊を
叩くことができなくなります。
と、なると
渤海湾~黄海からの制海権も
完全にロシアに握られます。
加えて
(幸い、まだロシア帝国の首都
サンクトペテルブルクと
旅順の間のレールは、完全には
繋がってはいませんでしたが)
シベリア鉄道が全線開通すれば、
百万をこえるロシア陸軍も
短期間で遼東半島に
送り込めるようになります。
海と陸双方で、
中国と朝鮮半島、
さらには満州にまで
ロシアの支配が
確固たるものになるのは、
もう時間の問題となりました。
放置しておくと日本周辺を
ロシア軍に囲まれ、抑えられる。
次にやつらは
大軍で日本に迫ってくるでしょう。
そうなればアウトです。
シベリア鉄道建設と
旅順要塞の工事を
このまま座して
見ているわけにはいかない。
いや、このまま日本を
ロシアの植民地に
されるわけにはいかない。
東清鉄道が旅順にまで
繋がった1901年、
日本政府は
「ロシア側の戦力が準備万端に
なってからではもう遅い。
そうなる前に、
シベリア鉄道全線開通までに
極東のロシア軍を
叩かねばならない」と、
開戦を覚悟し、
密かに戦争の準備を開始します。
【17.日本に開戦を覚悟させた事件とは?】
鉄道と要塞だけではありません。
この当時、
日本はロシアと比較して
兵力のみならず
国家の予算規模でも
8分の1程度の財力しかなく、
誠に非力だったのです。
こんな状態で
まともに戦ってもまず
勝つ見こみはありません。
それでも超大国相手に
戦う道を日本は選びました。
無謀とも言える決意をした
理由がもう一つあります。
歴史の教科書にはあまり
取り上げられていませんが
ある事件が大きく影響して
日本は開戦を決意したからです。
それは、
ブラゴヴェシチェンスク虐殺事件
といいます。(1900年)
ロシアと清国の国境に近い
満州のブラゴヴェシチェンスク
という町で、ロシア軍によって
町にいた清国系の住民が多数
虐殺される事件がありました。
(日露戦争開始の4年前でした。)
この時、ロシア軍は清国に対し
「刃向かうと痛い目に逢うぞ」と
清国軍のみに対して
軍事力の誇示・威嚇を
するだけでよかったはずでした。
ところが、
それだけでは飽き足らず
ブラゴヴェシチェンスクにいた
罪のない清国の一般市民を
老若男女問わず、それこそ
子供も全員虐殺したのです。
ロシア人は当時、
清国人や日本人等の有色人種は
猿と同じ存在であると蔑視し
人とみなしていませんでした。
だから、アジア人を殺すことに
罪の意識を感じることも
躊躇することもありませんでした。
命乞いする女性や
泣き叫ぶ子供らなどに
全く構うことなく
ロシア軍は殺戮を行いました。
その数は5000人とも
20000人とも言われました。
この虐殺事件のニュースに
全アジア人は涙しました。
何と残酷なことをするのか、と。
以来、アジアの人々は
ロシアを悪魔のように
考えるようになっていました。
特に日本人は、この事件を見て
ロシアの領土拡張を放置すると
次は、
自分たちの命が危ないと
戦慄を覚えたのです。
そう。ロシア帝国に
植民地にされたら最後、
ブラゴヴェシチェンスクの
住民のように虐殺される。
露助(ろすけ)は
(日本はロシア人を露助と
蔑称しつつ、怖れました。)
有色人種の命など
虫ケラと同じとみなす
残虐・獰猛な連中である。
加えて、強大な軍事力を
持っているため
殺されても文句が言えない。
こんなロシアを退治してくれる
正義の味方もいない。
(これは、100年以上たった
現代でもそうですよね。)
【18.日本は危機に立ち向かった!】
こんな状況でしたので
「そんな横暴を許しまじ。
座して滅亡してたまるか!
日本国民一致団結し、
命をかけた防衛戦をやるしかない。
ロシアに大和民族の
意気込みを見せてやろう。」
と、いう機運が
日本国内にみなぎりました。
これは例えるなら、
遊星爆弾で攻撃を行い、
地球人類に奴隷になるよう
要求してきた
強大なガミラスの
デスラー総統に立ち向かう
宇宙戦艦ヤマトの
主人公たちの心境でした。
負ければ、日本民族の
滅亡が待っているのですから。
当時の日本人は
全員がそう思い一丸となって
ロシア皇帝ニコライ二世を
目の敵にしていました。
当時の世界最強の陸軍大国に、
東洋の小国が戦いを挑む。
相手は
情け容赦のない侵略国家で
負ければ即、滅亡が待っている。
そんな危険を冒してでも、
明治の日本政府は
座して死を待つより、
一か八かの大勝負にでました。
(初代総理大臣を務めた
伊藤博文は 「勝つ見込みが
まずない」として最後まで
何とか戦争は避けたいと
画策していましたが。)
よって、日本のアジア進出は
侵略をしたいためではなく、
あくまで
植民地化されないためのもので、
自衛のためのものだったと
私は再度強調します。
と、説明しますと
「日本のアジア侵略の事実に
目をつぶり、自国の所業を
自衛と正当化するのか?」と、
東京裁判史観に洗脳された人から
反論が聞こえてきそうですね。
日本のアジア進出に際し、
一部で侵略的な側面や
事件も確かにありました。
私はそれは認めます。
日本の植民地にされた
朝鮮半島や台湾、後の
中国の人たちから見ると
確かにそうでしょう。
しかしながら、当時は
欧米列強による帝国主義・侵略が
全地球を覆い尽くし
食うか食われるか、
国際レベルでの戦国時代でした。
立ち上がらねば滅ぼされる。
滅ぼされたくなければ
自分たちも
手を汚してでも
立ち上がらねばならない、
そんな時代であり、
その場合の戦争は
侵略戦争ではなく、
自衛戦争となります。
しかも、
「侵略はやってはいけない」
等の、現代であれば当然出る
国際世論や批判・抑制が
全く存在しない時代です。
更に言えば、
現代では当たり前となった
民主主義や人権、
人道主義の考えなどが
地球に広まっていない時代です。
平和や人権を叫ぶマスコミの声や
インターネット上の意見が
一定程度の力を持っている、
今の時代情勢とは全く違います。
従って、
21世紀から見た時代的観点で
「日本は侵略すべきでなかった」
「日本は侵略国家だった」と、
批判するのは完全な間違いです。
日本だけが侵略国家で、
日本だけが悪い、
だからアジア諸国や
世界に謝罪を続けるべきだと
非難されたり、
我々の側からこれ以上謝罪するのは
全く不当だと私は思います。
侵略に関して言えば
欧米列強の方が日本より圧倒的に
酷いことをやっていましたから。
食うか食われるか?
やらねば、自分が滅亡する
地球レベルの弱肉強食の中で
列強からの侵略に
日本は国として生き残る道を
自らも手を汚す道を
選ばざるを得なかったということを
申しあげたいのです。
日本は好き好んで自らが
侵略国家になったのではありません。
この点を間違ってはなりません。
よって、
アジア侵略の真犯人は
日本ではありません。
(真犯人は・・・賢明なあなたなら、
もうお判りですよね。)
後に、日露戦争に突入する際
財政的な支援で
我が国を助けてくれた
ジェイコブ・シフが、
いみじくもこう発言しております。
「ロシア帝国に立ち上がった
日本は神の杖である。」と。
(この辺のエピソードは
もう少し後に詳しく述べます。)
心ある人には
真実がわかっていたのですね。
【19.人種差別を、人類史上初めて打砕いた日本】
ここは、特に私が強調したい内容です。
ちなみにこの時代、つまり
帝国主義時代の
欧州の白人たちは、
自分たちが最も優れた人種であり、
白人以外の有色人種は劣っていると
完全に見下していました。
欧州列強による、
大航海時代(1400年代)から
始まった植民地獲得により、
アフリカの黒人たちが、
次にアメリカ大陸の原住民、
さらにはアジアの黄色人種が
白人の支配下に入ったことから、
「白人は強い。白人の方が優秀なのだ。」
という白人至上主義的な
差別観が生まれます。
この差別観は
1400年代から培われますので、
何と500年以上も長く、
地球上を覆うのです。
その結果、19世紀に
欧州で目覚しい進歩を見せた
自然科学は、白人しか理解できないと
欧州の人々は信じていました。
よって、
有色人種の日本人が、
「文明開化だ」と称して
自然科学や技術を学んでも
近代化に成功するなど、
夢にも思っていませんでした。
またノーベル賞は、
1949年に湯川秀樹博士が
物理学賞を取るまで、
有色人種では
なかなか受賞できませんでした。
実はそれ以前にも、
北里柴三郎や、野口英世、
鈴木梅太郎など
ノーベル医学賞を取っても
おかしくないだけの研究実績がある
日本人はたくさんいました。
しかしながら、有色人種は
劣っているから大した研究は
してないだろう、という
人種差別観が
ヨーロッパには厳然と存在し、
これが有色人種の
ノーベル賞受賞を妨げていました。
余談ですが、
当時のロシア皇帝ニコライ二世は、
日本人を「マカーキー(猿)」と蔑み、
人間として扱おうとは
決してしませんでした。
公文書にも終生
「日本人(ヤポンスキー)」
とは絶対書かずに常に
「マカーキー(猿)」と
書いていたと聞いています。
こうした
「白人優勢」「有色人種を蔑視する」
頑固な世界観を
世界史上初めて
たたき壊した国家が日本でした。
その最初のきっかけこそ、
日露戦争だったのです。
(太平洋戦争がその第二弾となります。)
日本がロシアに勝ったからこそ、
後の歴史が大きく変わり、
数十年後には
地球上から植民地支配が
消えていく契機となりました。
もしも、日本が敗れていたら
未だに白人による支配が優勢の
植民地が地球のあちこちに
今の時代にも残っていたことでしょう。
このことは、
いくつかの歴史書には
記載されていますが
世界史や日本史の教科書に
はっきりと明記されているのは
悲しいかな、少ないですね。
白人らが最も認めたくない
真実の一つでもあります。
【20.開戦を覚悟したものの、どう戦うか?】
要塞や鉄道を造り、
侵略の魔の手を伸ばす
ロシア帝国に対し、
自衛開戦やむなしと方針(戦略)が決まった
日本ですが、では具体的に
どう戦えば(戦術)よいのでしょうか?
それは、
盗まれた遼東半島の奪還が必要だ、
ということでした。
ここに駐留しているロシア軍を、
実力で駆逐することが中国への
支配を止め、同時に自国防衛に
繋がると判断します。
特に、満州でロシア陸軍本隊と
将来ぶつかることを考えると、
半島の最南端の旅順にいる
ロシア陸軍2個師団に
挟み撃ちされる危険がありました。
そんな後顧の憂いを断つために、
その敵の2個師団と
建設途上にあった
旅順要塞を完成前に
叩く必要が でてきました。
陸軍だけではありません。
旅順港には
ロシア極東艦隊も配置され、
渤海湾を押さえられていました。
日本が
渤海湾〜黄海~東シナ海〜日本海に
渡る制海権をとり、
朝鮮や満州の日本軍への補給路や、
中国への進出ルートを
確保するためには、
ロシア極東艦隊を沈め
無力化することが
必須と判断します。
もしも、ロシアの艦隊に
日本側の海上補給路を絶たれると
即、 満州や朝鮮にいる日本陸軍が
干上がってしまい、
ロシア陸軍との戦いに敗れてしまいます。
そんな事態は絶対に回避せねばなりません。
満州と朝鮮の
防衛ラインを破られると、
日本本土にロシアは必ず
大軍で攻め寄せてきます。
そうなれば
日本は滅亡してしまいます。
つまり、日本が生き延びるためには、
旅順のロシア陸・海軍を叩かなければ
ならない、ということがわかりますよね。
【21.第ゼロ次世界大戦】
この旅順を巡って、
日露両国間で
国家総力戦が繰り広げられる
ことになるのです。
旅順を巡る戦いが
どれだけすごく悲惨だったか。
NHKドラマ「坂の上の雲」で
ナレーターの渡邊謙はこう言います。
「旅順攻撃は、維新後初めて日本が
「近代」というものの恐ろしさを
知らされた、最初の体験であった
かも知れない。それを知ることを、
日本人は血で贖(あがな)った。」と。
世界史では、
大規模な国家総力戦は
1914年に始まる第一次世界大戦が
最初とされます。
しかしながら、
第一次世界大戦より
10年早く勃発した日露戦争こそ、
人類史上初の国家総力戦であった
と私は考えます。
その意味では日露戦争は
第ゼロ次戦世界大戦で
あった と思うのです。
ところで
国家総力戦とは何でしょうか?
近代から現代においては、
いざ他国と大規模な戦争となれば、
人・もの・金、軍事力と
自国の持つ資源とパワーの全てを
投入することになるのです。
外交面でも、
できることは全て手を打ち、
死力と知恵の限りを
尽くすことも必須です。
さらに実際の戦闘は、
専門職業的な兵士や騎士と言った
一部の階級だけの人間が
それを担うのではありません。
一般の国民から徴集された兵士を、
国民軍として訓練・投入し、
戦場に総動員していきます。
文字通り、国をあげて
死力を振り絞っての消耗戦でした。
それが国家総力戦なのです。
日露戦争はまさにそれに該当します。
列強が帝国主義により
植民地獲得競争をやっている以上、
ターゲットにされ、
国家総力戦で負けた国には
滅亡が待っていました。
それが19世紀から
20世紀前半までの常識でした。
実際に
南米やアフリカ・アジアにあった
小国は列強各国との戦いに敗れ、
次々に滅ぼされ、
植民地にされたのです。
ちなみに、
植民地にされるとどうなったか?
過去、アジアで広まった
プランテーション農業をご存知ですか?
社会の授業で習いましたよね?
語弊がありますが、
プランテーション農業の本質は
体のいい奴隷労働農業でした。
はっきり言って、
強制労働の一種と申してよいでしょう。
国家総力戦に敗れた国は、
まさしく奴隷労働国家に
改造されてしまうのです。
プランテーション農業は
改造後の典型的な姿であり、
現在もその傷を後世に
伝えているものに私には見えます。
【22.明治政府の外交とイギリス】
江戸時代の末期に日本は
一度は不平等条約を結ばされます。
しかし、明治維新は我慢して
近代化と富国強兵を進めていきます。
かつ、非力な国力を外交でうまく
カバーしようとしました。
日本は賢く外交で立ち回ります。
ロシア帝国の脅威に対して、
欧米列強の中から、日本と
利害が一致する国に協力を求めます。
それはどこか?
大英帝国=イギリスでした。
当時イギリスは世界最強の
海軍を有していました。
(世界の4分の1を支配していました。)
そのイギリスは、ロシアの
アジアでの勢力拡大に
警戒心を日本と同じく抱いていました。
1900年に中国で発生した
義和団事件(反植民地支配の抵抗運動)を
鎮圧すべく、ロシアは
大量の陸軍を投入します。
他の列強(ロシアを除くと7か国)も、
自国の租借地や
鉱山などの植民地権益を守るべく
軍隊を投入しますが、
各国とも それぞれ事情があって
大軍が出せません。
ロシア帝国だけが突出して、
大軍を出していることを
一番警戒したのはイギリスでした。
イギリスは
大軍を出せない理由があり、
そこで日本に大軍を出すよう
依頼してきたのです。
なぜなら、
義和団事件の鎮圧を
ロシア主導で全部やられると、
そのまま中国の中枢を
ロシアに握られる危険性が
高かったからです。
つまり、自国の代わりに
ロシアを牽制する勢力を
送りこみたかったのです。
イギリスは
義和団事件の鎮圧のために、
5000人くらいしか
自国兵を送りこめませんでした。
理由は、
1899年~1902年にかけて
南アフリカで起きた「ブール戦争」に
自国の大軍を派遣していたからです。
(別名「ボーア戦争」ともいいます)
イギリスは戦いが起きた
植民地に関して、
地球全体を俯瞰し
中国と南アフリカを天秤にかけ
どっちが重要か考えます。
その結果、
南アフリカを重要だと考えます。
中国よりなぜ
南アフリカを大事に思ったか?
南アフリカには、イギリスは
ケープ植民地を有していました。
今の希望峰(ケープタウン)です。
このケープ植民地の隣に
オレンジ自由国という、
オランダ人が入植して建国した
植民地国家がありました。
ここでダイヤモンドが発見されました。
さらに、オレンジ自由国の隣にあった
トランスヴァール共和国(これも
オランダ人が作った国)には、
金鉱脈が発見されていました。
イギリスは強欲にかられ、
オレンジ自由国と
トランスヴァール共和国の両方に、
陸軍合計50万で攻め込みました。
だから、中国で起きた
反乱に自軍の主力を
割くことができなかったのです。
「ブール戦争」の狙いはもちろん、
ダイヤモンドと金を奪うことです。
これぞ、まさに地球規模での
弱肉強食の戦国時代ですね。
この戦争の結果、
オレンジ自由国と
トランスヴァール共和国は
イギリスに併合されました。
つまり、中国での植民地権益より、
ダイヤモンドと金が生み出す
利益に目が眩んだのです。
それがイギリスの本音でした。
ちなみに、イギリスに併合、
いや滅ぼされたオランダ系の
二つの国は地図から消え、
現在の南アフリカ共和国となります。
だからこそ、
南アフリカ共和国では
今もダイヤモンドと金が取れますし、
第二次大戦後も
長らくイギリス系の
白人がこの国を支配し続けます。
さて、少数の白人たちが、
ダイヤモンドや金の権益を守りつつ、
圧倒的に多い地元の黒人たちを
支配するために編みだした政策を
ご存知でしょうか?
それが悪名高い人種差別政策、
アパルトヘイトでした。
アパルトヘイト制定以前から、
イギリスはブール戦争後に、
この地に原住民土地法や、
背徳法(白人と黒人間の結婚を禁じる)
など、黒人を差別し、
彼等の自由や権利を制限する法律を
次々にイギリスは打ち出していきます。
南アフリカから
白人支配がなくなり、
黒人政権が誕生するのは
1990年代まで待たねばなりません。
(この話は別の機会で
詳しく披露いたします。)
【23.日英の利害が一致し、日英同盟へ】
さて、話を戻しましょう。
ロシア進出の脅威に対抗するために、
利害がイギリスと一致した
日本は義和団事件鎮圧のために
イギリスからの出兵要請に応じます。
結果、
一万人以上の大軍を出しました。
こうすることで、日本は
イギリスに恩を売ることに
成功しました。
ところで、ロシア軍は
義和団事件を武力で鎮圧する際に、
中国の町で略奪行為や、
婦女暴行等の
狼籍をやり尽くします。
(他の列強の守備軍の
白人兵士も同じことをします。)
では、日本軍も同じように
略奪や婦女暴行をやらかしたか?
いいえ、日本軍だけは違いました。
義和団事件の鎮圧には、
日露含めて8か国の列強の
軍隊が動いたのですが、
ただ一か国日本軍だけが
狼籍などは一切しませんでした。
秩序と統制のとれた
紳士的な対応を示します。
結果、
植民地化に反対する中国人ですら、
日本軍は信頼できると
思わせるほどでした
明治政府は、
江戸幕府が幕末期に結んだ
不平等条約すらも、
文句を言わずに黙々と
履行し続けていました。
(このころは、まだ
関税自主権を回復できずに
我慢を重ねていました。)
このように
国際条約をきちんと守る政府と、
日本軍の節度ある行動ぶりを見て、
イギリスは日本を
「黄色人種ではあるが、
日本は信頼に足る
近代化された紳士の国。」
と評価するようになります。
こうした国際的な信頼の
積み重ねが日本自身を
救うことになります
日本への信頼感醸成を基盤として、
ロシアのアジアでの南下阻止のために、
イギリスは遂に日本と手を組みます。
(1902年日英同盟)
日本は信用できる国であると
思われるようになったことが、
日本をロシアから救う
命綱ともいうべき
強固な後ろ盾を得ました。
日本では
世界最強ともいえる大英帝国と
対等の同盟を結んだことを
国を挙げてお祝いムードになったと、
当時の記録は伝えております。
当時、イギリスは世界最強の
海軍力を保持していることから、
「名誉ある孤立」を標榜し、
原則、列強のどの国とも
同盟は結びませんでした。
そのイギリスが、原則を
放棄してまでして、
東洋の黄色人種の新興国と
同盟を結んだのです。
これは世界史を揺るがす
一大事件でもあり、
特にロシアは驚きました。
まさか、あの大英帝国が
「猿」と手を組むと?
この続きは
また別の記事に掲載しますね。
(長い記事にお付き合い
いただき感謝いたします。)
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