ここまで合計4回にわたり
明治以降の近代の歴史を
私なりに振りかえってみました。
いよいよ
5回シリーズも今回で区切りです。
繰り返しになりますが、
21世紀のこれからの時代は
古い価値観が崩れていき、
大きな変化と
激動が訪れることは
ほぼ間違いないでしょう。
そんな不安な時代ゆえに、
今よりもっと困難で
(滅亡するかもしれないという)
絶望的な状況下だった
100年以上前の
我が国の祖先らの
苦闘と足跡を振り返ることで
温故知新ともいうべき
未来が見えてくると私は思います。
先人らに敬意を払いつつ、
現代に生きる我々は
そこから未来に生かせる
教訓を得たいと考えます。
最終回の今回
日露戦争での日本の勝利が
世界に与えたインパクトについて
(過去何度も触れていますが)
特に詳しく
述べていきたいと思います。
また、日本が
天から与えられた役目を
果たしたということにも
少し触れたいとも思います。
なお、私がなぜここまで
日露戦争に深く解説するのか?
その理由は別のブログ記事を
ご参照ください。(下記リンク参照)
https://miyanari-jun.jp/2017/05/26/nichiro-war-history/
【1.植民地支配打破のうねり】
日露戦争では
「日本はロシアに勝てない。」
「可哀想に大国の力の前に
潰されるに違いない」と
世界中から思われていた日本が
連戦連勝で遂に勝利を収めます。
それが、歴史上どれほどすごい
インパクトを与えたか?
欧米の白人らにとって
不都合で耳障りな、
真実の声を例にあげましょう。
まずはお隣、中国です。
中華民国(現在の台湾ですが)
建国の父・孫文は
日露戦争をこう評価しました。
「これはアジア人の欧州人に対する
最初の勝利であった。
この日本の勝利は
全アジアに影響を及ぼし、
全アジア民族は非常に歓喜し、
極めて大きな希望を抱くに至った。
大国の圧政に苦しむ
諸民族に民族独立の覚醒を与え、
ナショナリズムを急速に高めた。」
次はインドです。
インド独立のために戦った
チャンドラ・ボースも言います。
「私がようやく小学校に通い始めた頃、
一東洋民族である日本が、
世界の強大国ロシアと戦い、
これを大敗させました。
このニュースが全インドに伝わり、
興奮の波がインドを覆いました。
いたるところで旅順攻撃や、
奉天の会戦や日本海海戦の
勇壮な話で持ちきりでした。
私たちインドの子供たちは、
東郷元帥や乃木大将を
敬慕し、尊敬しました。
元帥や大将の写真入手を
試みましたができず、
その代りに市場から
日本の品物を買ってきて、
日本のシンボルとして
家に飾ったものでした。
そして、インドの革命家たちは、
なぜ日本が強大国をやっつける
ことができたのか、
それを知ろうと日本に渡りました。」
3番目はアフリカです。
エジプト民族運動の指導者、
ムスターファ・カミールは
「日本人こそ、ヨーロッパに
身のほどをわきまえさせてやった、
唯一の東洋人である。」と
述べました。
また、ウィリアム・デュボイス
(アフリカ開放の父といわれた)
はこう言います。
「有色人種が先天的に劣っている
という誤解を日本が打破してくれた。」
4番目になりますが、
日露戦争の日本の勝利は
ロシア帝国からの圧迫で
苦しんでいた国々にも
大きな福音となります。
ロシア帝国の隣国で
属領になっていた
北欧のフィンランドでは
マンネルヘイムという人物が
奉天の会戦にロシア陸軍の
騎兵旅団長として従軍しました。
この戦いでは秋山好古が
当時最強とされた
ロシアのコサック騎兵隊の大軍を
新戦術(機関銃と騎兵のコラボ)で
葬り去ったことをお伝えしましたね。
結果、劣勢だった日本軍が勝ちます。
マンネルヘイム旅団長は衝撃を受けます。
日本が証明したように、
たとえ小国でも国民が団結し、
近代化を進めて立ち上がれば
大国ロシアに勝てると知ったのです。
後に、マンネルハイムは
フィンランドの指導者となり、
日露戦争終結から12年後、
支配国・ロシアでおきた革命の
混乱に乗じて独立に成功します。
日本の勝利が
全世界に与えたインパクトの
事例はまだまだあります。
ロシア帝国の圧迫に苦しむ
オスマン・トルコ帝国では
生まれてきた子供に対し
乃木希典や東郷平八郎に
あやかるために
「ノギ」「トーゴー」という
名前をつけることが
流行になります。
また、
「トーゴー通り」が
街に登場します。
観戦武官として来日していた
トルコのペルテヴ・パシャ大佐は
日露戦争での日本の勝利を
目の当たりにし衝撃を受けます。
その上で、
「日本軍の勇敢さや
国民の一致団結を讃える。
国家の命運は国民の自覚と
愛国心で決するものであり、
トルコの未来も日本を見習い
近代化を進めるならば、
決して悲観すべきではない。
国家の命運は国民にあり」と
帰国後に訴えます。
それが後に、
近代化を推進する青年党の運動、
ケマル・アタテュルク
(トルコ共和国の建国の父)
のトルコ革命(1922年)に
受け継がれます。
日露戦争より70年ほど遡りますが
ポーランドは、
当時支配を受けていた
ロシア帝国に対し反乱を
1830年に起こします。
しかしながら、
首都ワルシャワがロシア軍の
攻撃の前に陥落し
独立に失敗。以降は
ロシアの圧政に苦しんでいました。
ポーランド出身の
天才ピアニストのショパンが、
この時、首都ワルシャワ陥落と
祖国滅亡の知らせを聞いて
怒りと悲しみのあまり
作曲した激しい曲こそ、
名曲「革命」です。
ショパンもロシアには
恨みを持っていたんですね。
その後、日露戦争があった
20世紀初頭には、新たに
ドイツ帝国の支配も受ける等
ポーランドは大国の狭間で
苦しみ抜いていました。
そのポーランドでも、
日本の勝利を知って
「ノギ」という名前を
つけた人がたくさん現れます。
そして日露戦争終結の13年後の
1918年、第一次世界大戦終結に
乗じて独立を果たしたのです。
アジアに戻って、例をあげましょう。
旧ビルマ(現ミャンマー)独立後の
初代首相・バ・モウはこう述べます。
「アジアの目覚めは、
日本のロシアに対する勝利に始まり、
この勝利がアジア人の
意識の底流に与えた影響は
決して消えることはなかった。」
「日本が西欧勢力に対抗する
新勢力として台頭したことは、
日本のアジア諸国への影響を
ますます深めていったのである。
それはすべての虐げられた民衆に
新しい夢を与える
歴史的な夜明けだったのである。
私は今でも、日露戦争と
日本が勝利を得たことを聞いた時の
感動を思い起こすことができる。」
「私は当時、
小学校に通う幼い少年で
そのころ流行した戦争ごっこで、
日本側になろうとして争ったものだ。
こんなことは、
日本が勝つ前までは想像もできなかった。
日本の勝利はアジアの目覚めの発端、
またはその発端の出発点とも
呼べるものであった。」
インド独立後、
初代首相となるネールも述べます。
「私が子供の時、日露戦争があった。
当時ロシアは世界一の陸軍国だった。
世界中は、ちっぽけな日本なんか
ひとたまりもなく
叩き潰されると思っていた。
アジア人は西洋人には
とてもかなわない
と思っていたからだ。
ところが戦争をしてみると、
日本が勝っていくのだ。
日本の戦勝の知らせは
私を熱狂させた。
新しいニュースを見るために
毎日、新聞を待ちこがれた。
そして、遂に日本が勝った。
私は、自分達だって
決意と努力次第では
やれない筈がないと
思うようになった。
そのことが
今日に至るまで私の一生を
インド独立に捧げることになったのだ。
私にそういう決意をさせたのは
日本なのだ。」
「アジアの一国、日本の勝利は
アジアの総ての国々に
大きな影響を与えた。
ヨーロッパの一大強国を
破れたとすれば、
アジアは昔たびたび
そうであったように、
今でもヨーロッパを
打ち破ることができるはずだ。
ナショナリズムは
急速に東方諸国に広がり
『アジア人のアジア』の叫びが起きた。
日本の勝利は、アジアにとって
偉大な救いであった」
「日本が最も強大な
ヨーロッパの一国に対して
よく勝利を博したのであれば
どうしてそれを
インドがなしえないと
いえるだろうか?」
このように
日露戦争での日本の勝利は
全世界で衝撃を与えました。
その例は枚挙に暇がありません。
私は、これこそが
大いなる神仏が望んでいた
結果と影響であったと思います。
「人種間で優劣などない。
人類は平等である。」
これが神仏の思いと願いです。
白人だけが優秀で、
有色人種が白人に支配され、
奴隷にされるような
地球文明が地上を席巻することを
神仏は望んでおりません。
だからこそ、
日露戦争の最中には
様々な奇跡が起き、
日本が勝てるよう
天上界も応援していたのだと
私には思えてなりません。
【2.日本はロシアの背に銛(もり)を打ち込んだ!】
一方、
敗れたロシア帝国では
ロマノフ王朝の命脈に
致命的に近い
大きなダメージを受ける
ことになります。
ロシアの国運が
大きく傾いていくのです。
後に、社会主義革命を起こし
ソ連を樹立するレーニンは
「旅順の降伏は
ヅァーリズムの降伏の序幕である。
専制は弱められた。
一番信じようとしない人々までが、
革命が起こることを
信じはじめている。
人々が革命を信じることは、
すでに革命の始まりである。」
と、日露戦争の最中に
予言していました。
日露戦争を契機にロシアも
かなり国力を疲弊しました。
その結果、ロシア国民に
重税を課すようになります。
さらに、戦争で失った兵員を
補充すべく徴兵を強化します。
そのため、国民生活が圧迫されます。
するとどうなったでしょう?
じわじわと
ロマノフ王室への不満が高まりました。
こうした情勢をバックに
レーニンらの活動により
社会主義思想と運動が
農民や庶民に広がります。
ロシアに潜入して活躍した
日本人スパイとして有名な
明石元二郎が暗躍したのも
日露戦争からこの頃です。
彼は社会主義勢力を
水面下で援助し、
ロシアを内部から崩壊に
導くことで日本が有利に
なることを目指しました。
実は、この明石元二郎に
ロシア内部の攪乱工作を指示し
弱体化を推し進めた上司こそ
ドイツ軍参謀本部のメッケルから
「彼は天才である」と
言わしめた、あの児玉源太郎でした。
児玉は
旅順を陥落させたのみならず、
ロシア帝国を内部からも
崩しにかかっていたんですね。
明石元二郎が
ロシアで内部工作を進め、
社会主義広がる中で
第一次世界大戦が
1914年に起きます。
(後に、ドイツ皇帝
ヴィルヘルムは明石
の功績をこう評価します。
「明石一人で、大山巌率いる
20数万の日本軍に匹敵する
戦果を挙げた」と。)
この戦争で
ロシア国民の生活は
極限に追い詰められ、
国内で暴動や反乱が起き出します。
そして、レーニンの予言は
日露戦争終結から12年後の
1917年にロシア革命として
遂に現実化するのです。
こうしてみると、
日本の外債募集の際に
投資をしてくれた大富豪
ジェイコブ・シフが、
「ロシア帝国に立ち上がった
日本は神の杖である。」と
回想録で語った
言葉が再度蘇ります。
日本の勝利は
背中に銛(もり)を突き刺す如く
大国・ロシアの寿命を
ぐんと縮めたのです。
日本人を マカーキー(猿)と
呼び捨て、
さらには極東すべてを
植民地にしようとした
ロシア皇帝ニコライ二世は
どうなったでしょうか?
彼は全アジア人にとって
最大最強の敵でした。
いや、「悪魔」だと
見られていました。
映画スターウォーズでいうと
悪役・帝国軍の皇帝
そのもののような存在です。
なぜ、そんな
ダーティーイメージがあったのか?
理由は
以前、このブログでも触れた
「ブラゴヴェシチェンスク虐殺事件」
(日露戦争前の1900年)を
ロシア軍が起こしているからでした。
どんな事件だったか覚えていますか?
ロシアは
ブラゴヴェシチェンスクにいた
罪のない中国人の一般市民を
老若男女問わず、それこそ
子供も全員虐殺したのです。
映画スターウォーズで
帝国軍が「デス・スター」を使って
惑星を丸ごと吹っ飛ばして
そこに住む何の罪もない
生命体や文明を絶滅させる
シーンがありますが、
まさにあのイメージです。
何でそんなむごいことをしたのか?
前にもお伝えしましたが
ロシア人は当時、
清国人や日本人等の有色人種は
猿と同じ存在であると蔑視し
人間とみなしていませんでした。
だから、
アジア人を殺すことに
罪の意識を感じることも
躊躇もありませんでした。
この虐殺事件の悲報に
全アジア人は涙しました。
「何と残酷な」と。
(「デス・スター」で
無慈悲な大殺戮を行った
帝国軍とまさに同じです。)
以来、アジアの人々は
ロシアを悪の帝国と
考えるようになっていました。
特に日本人は、
ロシアの領土拡張を放置すると
次は、自分たちの命が危ないと
戦慄を覚えたのです。
この事件は
日本人が滅亡を覚悟してでも
開戦(1904年)に踏み切らせる
重要な契機となっております。
(スターウォーズでいうと
日本は帝国軍に立ち向かう
反乱軍のような感じですね。)
当時の日本人は
全員がそう思い一丸となって
皇帝ニコライ二世を
目の敵にしていました。
さて、日露戦争が終わり、
次にロシア革命と
民衆の反乱に直面した
ニコライ二世はどうなったか?
哀れな最期でした。
彼は退位を迫られ、
社会主義革命勢力に
捕らえられます。
その数ヶ月後に
家族もろとも
彼は銃殺に処されました。
ロマノフ王朝は
14代目の彼の代で断絶し、
ここに大ロシア帝国は
滅亡したのです。
「奢れる者は久しからず。
盛者必衰の理を現す。」
とはこのことを言います。
日露戦争によって疲弊し、
児玉・明石による内部工作が
毒のように体内に回ったところに
第一次大戦という
最後のとどめがあって
反乱と革命を起こされて
ロシア帝国は死んでしまったと
評価して良いでしょう。
【3.戦争終結と講和会議を急げ!】
さて、時計の針を
1905年に戻しましょう。
ロシアの国力(国家予算)の
8分の1しかない弱小日本は、
1年余り必死に戦いました。
その結果、日本陸軍は
奉天の会戦を最後に
それ以上戦う余力が
全く残っていませんでした。
連勝は続いたものの
死傷者は20万近く、
兵は疲弊しきっていました。
またこれ以上、
借金で戦費を調達するにも
返済能力は限界でした。
むろん、こうした情報自体は
当時の最高国家機密でした。
ちなみに、陸軍参謀の児玉は
5月に行われる
日本海海戦を待つことなく
3月に奉天の会戦を
勝利で終わったところで
国家の疲弊状態を鑑みて
政府に戦争終結のための
外交交渉を早くやってくれと
東京へ頼みにいくのです。
開戦当初から
日本の狙いは「短期決戦」。
非力な日本が
大国ロシアに勝つには
短期間で勝利を収めて
国力があるうちに早く終わらせる、
それしか道はありませんでした。
奉天の会戦後、
急ぎ東京に向かった児玉は
新橋駅に迎えに来た
部下・長岡外史に
こう厳しく叱ったと言います。
「長岡!何をぼんやりしておる!
点火(戦争を始めたら)したら
消す(終結させる)ことが肝心じゃ!
それを忘れているのは馬鹿じゃよ。」
長岡はこの時の児玉の形相、
気迫を生涯忘れられなかった
と言いました。
奉天の戦いは、
確かに日露戦争の
陸上での関ヶ原の合戦であった、
それはその通りでした。。
しかしながら、
日露間の最後の決戦は
補給路確保のための
制海権の争いとなりました。
奉天で勝ったとはいえ、
日本に向かったバルチック艦隊が
ウラジオストックに入るか否かで
どちらが
日本海~中国の黄海を
押さえるかで、
この戦争の勝敗が決まる、
と世界中が注目したからです。
その結果は、上記で
お伝えした通り
日本が完全勝利したのです。
バルチック艦隊を
潰したことでようやく、
恐怖の帝王・ニコライ2世の
極東制覇・植民地化の野望を
打ち砕くことに成功し、
諦めさせることができたのです。
日本海海戦の勝利の報は
この戦争を終結させる
絶好の機会となりました。
次に、
その講和会議はどこで行うか?
が、問題になります。
通常、講和会議は戦勝国で行います。
(勝った方が負けた国を呼びつけます。)
日露戦争前にあった
日清戦争で
下関で講和会議が開催されたのは
日本が勝ったからです。
では、ロシアに
日本で講和会議をやろうと呼びかけたら
外交団の代表を
日本に送り込んでくるでしょうか?
ニコライ二世は
極東への侵略こそ諦めますが、
「負けた」とはまず認めません。
理由は簡単です。
極東での勝利は得られなかったものの
(1)帝都サンクトペテルブルクは無事。
つまり、極東を除くユーラシアの
ロシアの支配圏は健在である。
(2)さらに、シベリアのハルピンに
帝都サンクトペテルブルクから
増援を送れば
陸軍を再集結・再編成できます。
(3)海軍では、
黒海にも艦隊を残しており
まだ戦おうと思えば
戦争継続が可能だからです。
【4.戦争終結するための秘策とは?】
では、戦争終結の講話会議に
どう持ち込んだらよいか?
当時の明治政府は
先見の明がありました。
日露戦争の開戦前、こう考えます。
大国ロシアが相手ゆえ
この戦争は短期決戦でやらねば
日本の国力や資金が持たない。
しかも、
2万キロ近く離れた敵国の首都を
陥落させるなどとてもできない。
勝てるとしても
極東に駐留する敵軍を
駆逐するのが精一杯。
要するに、短期で
引分けに持ち込むしかない。
引分けになったところで即、
講和に持ち込まねばならない。
しかしながら、
講和会議を行うにあたって
ロシアの代表を
日本に呼ぶことはできないだろう。
なぜなら通常、
講和会議は戦勝国で
行うのが慣例であるが
敵はまだ完全に負けてはいない、
首都も攻略されていないと
主張するであろうから。
よって、日本での
会議開催なら出席しないと
抵抗される可能性が高い。
下手をすると
ロシアに戦争継続を主張され
戦いが長期化するかもしれない。
それだけは、非力な日本は
絶対に避けねばならない。
ならば、引き分けた時点で
別の国に講和会議開催に向け
仲介の労をとってもらおう。
明治政府はそう考えたのです。
政府の誰が考え出したか?
初代総理大臣を務めた
元老・伊藤博文でした。
彼は最後の最後まで
ロシアとの開戦には反対でした。
その理由は単なる
平和主義者または
非戦論者だからではありません。
維新直前の若き頃には
長州と英国が直接戦った
「下関戦争」において、
実際に体験したからです。
さらに維新直後には
欧州各国を1年余り
岩倉具視らと視察して
その目で
実際に見ているからです。
何を体験し、見たか?
英仏独露などの列強各国の
国力・科学力・軍事力の
強さ、恐ろしさ、狡猾さでした。
実際に体験し、見て、
「列強とまともに戦っても勝てない」
と、身に染みて知っていたのです。
しかもロシアは当時、
世界最大最強の
陸軍を有していました。
だからこそ、
勝てるはずがないと考えて、
可能な限り
戦争は避けたかったのです。
しかし、いざ開戦が
御前会議で決まった以上、
有力な国に仲介の労を
とってもらう必要があると
伊藤博文は考えたのです。
その有力な国とはどこか?
世界最強の海軍国・英国は?
日本と同盟関係にあるため
日本に有利な仲介をすると
警戒するロシアが反対するでしょう。
よって、英国には頼めません。
フランスやドイツはどうか?
ロシアとともに
1895年、三国干渉で
日本に遼東半島を返せと
迫ってきたことや、
シベリア鉄道建設に
フランスが資金援助している
こと等から考えると、
この両国に仲介してもらうと
交渉はロシア寄りに
やられるリスクがあります。
日本としてはこの両国には
頼みたくないのが本音です。
では、どこの国なら
比較的中立の立場で
仲介が可能か?
それは、アメリカ合衆国でした。
「開戦直後からアメリカを説得し、
日本がロシアと引き分けた時点で
仲介の労をとってもらうよう
短期で戦争終結すべく準備する」
戦争を始める以上、
国家のために先に
終戦ゴールも考えておく。
維新前から数えて40年以上、
血の滲む努力と苦労で
新政府を作りあげてきた
元老・伊藤が考え抜いた
負けないための外交策でした。
では、その説得を誰が行うのか?
この大役を任せられる人材は
日本にいるのか?
【5.君が行かずば、日本は滅びるのだ!!】
開戦が決まった御前会議の直後、
その日のうちに
元老・伊藤博文は
貴族院議員の金子堅太郎を
自分の執務室に呼び出します。
「閣下、急なお呼び出しを受け
参上しましたが、御用件は?」
「金子君、呼んだのは他でもない。
貴君には、ただちに米国に渡航して
ほしいのだ。(当時は航空機なし)」
「米国で私がすべきことは何でしょう?」
「金子君、君は確か
ハーバード大学卒であったな?
大学時代、
現在の大統領ルーズベルトと
学友だったそうではないか。
今すぐ米国に渡航し、
ルーズベルト大統領に会い、
こたびの露国との戦争終結に向け
仲介の労をとってもらえるよう
説得をしてきてくれたまえ。」
金子も、
いざ開戦した日露戦争が
日本の国力からして
短期決戦でなくては
ならないことや
仮に講和をするにも
日本で行うことの
困難さは十分わかっていました。
とはいえ、
果たしてアメリカ合衆国が
仲介の労をとるでしょうか?
金子は少し考えてから
伊藤に次のように申します。
「閣下、お言葉ですが・・・・。
アメリカの財界は
露国と親戚関係にある者が多数
おります。
また、先の南北戦争(1861~65年)
の折には、勝利した北軍が露国に
援助してもらった義理もあります。」
(南北戦争がアメリカ国内で起き、
この内戦で分裂してくれれば
自分たちに有利だと考えた
イギリスとフランスは、
南軍を資金支援しました。
これに対し、
北軍率いるリンカーン大統領側を
資金援助した国がロシアでした。)
「以上から、政治的にも経済的にも
社会的にも米国は露国寄りです。
よもや日本に
利することをしてくれるとは
私には思えません。
成功の見込みがないご指示を
安請け合いすることは致しかねます。
閣下、誠に恐れ入りますが
今回はお断り申し上げます。」
この言葉を聞いた
伊藤はどうしたでしょう?
金子堅太郎から出た
腰砕け発言に
元老・伊藤博文は激怒します。
「駄目じゃ!駄目じゃ!駄目じゃ!
金子君、君はね
成功しようとするからダメなんだ!
こたびの戦、
正直私も勝てるとは思っていない。
大日本帝国陸海軍が全滅し、
ロシアの軍勢が九州や山陰に
上陸してくる事態になるやもしれぬ。
もしも、もしもそうなったら、
この伊藤、生命・財産・地位・名誉
すべてを擲(なげう)って
一兵卒として鉄砲を担いで
国民のために戦う覚悟でおる!」
伊藤はこうも述べます。
「この伊藤の目の黒いうちは、
あの露助野郎どもに一歩たりとも
この神州の地は踏ませぬぞ!!!」
あまりの熱意と迫力に金子も押されます。
「か、閣下・・」
伊藤は涙を流しながら続けます。
「私ゃね、この日本のために
命を賭けて戦おうと思っておる!
金子君、
君もこの国ために命を賭けたまえ!
命を賭けてやった結果が
成功であろうが、失敗であろうが、
そんなことは考えずともよい。
金子君、 行ってくれ!米国に。
君が行かずば、日本は滅びるのだ!」
この伊藤博文の覚悟・熱意に
心を動かされた金子は
船でアメリカに渡ります。
(当時はまだ航空機はありません。)
結果、どうなったか?
金子が渡航して以降、
日本が連戦連勝したことが
追い風になったことでしょうが、
金子は遂に
ルーズベルト大統領の説得に
成功しました。
よって、日本海海戦終了後、
アメリカ政府から日露両国に
「戦争を休戦し、講和会議を
アメリカでやりませんか?」
と仲介の労がとられたのです。
ロシア帝国からすると、
アメリカでの講和会議なら
自国のメンツが潰れない
(敗戦国とはみなされない)
ことから交渉への出席に
応じるようになったのです。
まさに、伊藤が
日本の未来のために
練った策が当たったのです。
日本海海戦の
終了から2か月半後、
アメリカの東海岸にある
ニューハンプシャー州の
ポーツマスで講和会議が
開催されることになりました。
陸軍参謀の児玉や、
大山司令官が待ち望んでいた
時がようやく実現したのです。
【6.ポーツマスで講和会議開催へ】
伊藤博文が練った策が奏功し、
日本の国力が底を尽きかけた
ギリギリのタイミングで
講和会議が
アメリカのポーツマスで
開催される運びとなりました。
そのポーツマスに向かう
日本側の全権大使・小村寿太郎の
心は晴れませんでした。
いや、憂鬱でした。
講和会議で、大国ロシアは
メンツを重んじるあまり
日本が望むような譲歩を
得られない可能性がある。
しかも、日本は資金面や、
兵の疲弊度からしてもはや
戦争継続は不能だからです。
(この事実は当時、最高の
国家機密でした。)
ロシアがもし、それに気づけば
戦争を再開されるかもしれない。
それだけは絶対に避けたい。
では、どう決着させるか・・・
を、悶々と考えていたからです。
一方で、小村の出立を見送る
日本国民はそんな機密情報
や事情は知るよしもありません。
国民の心にあるのは
一つ目は、
1895年の三国干渉以来
10年間、いつかロシアを
見返してやるとして
「臥薪嘗胆」を
国家スローガンに掲げ
我慢に我慢を重ねてきた
うっぷんが溜まっていました。
二つ目は、
ロシアへの恨みでした。
旅順で14万人もの味方が
死傷させられたことや、
他の戦闘でも多くの兵の命を
失った恨みがありました。
(国民の目にはロシアは
悪の帝国に写っていたことは
お伝えした通りです。)
三つ目は
講和では、我が国が有利なはずだ
という期待感と高揚感がありました。
対ロシア戦で10連勝。
世界最強のバルチック艦隊も
完膚なきまでに葬ったことから
会議では有利な交渉ができる
はずだと信じていました。
よって日本国民は、
ポーツマスの講和会議では
前回の日清戦争以上の
賠償金や領土を
ロシア側から獲得できる
と信じ込んでいました。
小村が
船でアメリカに向かう時、
横浜港には数万人の国民が
見送りに来ました。
その様子は
「歓送の市民、潮の如く溢れ
万歳の声は天地を揺るがす」
と、報じられました。
こんな熱狂と期待感で
送り出された小村は
国民からのプレッシャーと
会議の先行きの両方を思い、
めちゃめちゃ憂鬱だったのです。
一方、
ロシア全権大使のウィッテは
皇帝ニコライ二世から
次の命を受けておりました。
「土地も金も、わずかといえども
マカーキー(猿)に渡すな。」と。
小村寿太郎は、
明治政府から密かに次の
二つの条件を勝ち取るよう
命じられていました。
それは
「樺太の割譲」
「賠償金15億円」
でした。
(当時の国家予算2.6億円の7倍近い
17億円もの借金をしていたので、
その返済に充てる腹づもりです。)
ここまで
双方の皮算用が食い違うと
まとまる話もまとまりません。
果たして交渉の行方は?
いきなり決裂でしょうか?
【7.両国の駆け引き始まる】
アメリカ合衆国に到着した
小村寿太郎を
ルーズベルト大統領を説き伏せた
金子堅太郎が出迎え、
ポーツマスまで案内します。
さて、会議は最初から紛糾します。
対日本戦10連敗しているものの、
ロシア側の全権・ウィッテは
以下の論法で(予想通り)
負けを絶対に認めないからです。
「極東の局地戦では敗れたが
我が帝国はまだ磐石である。」
「その証拠に日本は
シベリアの要衝ハルピンも
まだ陥していないし、
ウラル山脈も突破していない。」
「帝国の中枢にも迫っていない。
帝都は健在でかつ、100万を超える
陸軍をこれからも投入できる。
この余裕の状態でなぜロシアが
負けを認めねばならないのか?」
「よって、賠償金の支払いや
領土の割譲など論外である。」
(強気ですが実は、日露戦争で
ロシア国内も疲弊していました。
すぐに100万の軍勢を補充する
ことはできない状況でした。
さらにいえば、
社会主義勢力の思想や主張が
庶民や農民に浸透しており、
反戦機運が高まっていました。
ウィッテは、それをひた隠しに
して交渉を切り出したのです。)
日本側は、
ロシアの国内事情の弱みを
情報として掴んでいました。
ロシアに潜入していた
スパイ将校・明石元二郎が
社会主義勢力を支援し、
ロシア内部から破壊工作を
様々に仕掛けていました。
その明石から、
ロシア側の国内の情勢に関する
情報を入手していたからです。
さて、小村寿太郎は
ウィッテの論法に
どう反論するでしょうか?
【8.小村寿太郎、吠える!】
負けを認めない
ロシアのウィッテの主張に対し
日本側全権大使の小村寿太郎も
負けてはいません。
「陸戦を見よ。我が軍は
貴国が世界最強の要塞だと
誇っていた旅順を落とした。」
「奉天では、貴国は我が軍より
数の上でも有利であって
かつ、最強のコサック騎兵も
擁していたにも拘らず
無残に敗走したではないか。」
「陸戦だけはない。
我が国はロシア海軍の
3分の2を葬ったのだ。
旅順やウラジオストックの
太平洋艦隊を撃滅し、
ヨーロッパから派遣された
世界最強のバルチック艦隊も
完膚なきまで撃滅した。」
「我が日本軍はこの戦役で
ほぼ全ての戦いで勝利し、
貴国はすべてに負けたのだ。
この事実を認めよ。」
「ロシアが100万の兵をまた
繰り出すというのであれば
我が国は鉄槌を下すべく
勇猛に戦う覚悟である。
結果、貴国は再び敗北を
味わうであろう。」
「勝ったのは日本である。
賠償金を認めてもらうまで
一歩も引かない!」
小村はロシアも疲弊しており
すぐには援軍を出せないことを
情報として知っていたので、
強気の反論ができたのです。
しかし、
日本は国力が底をついており、
戦争継続はできない状態でした。
もしも、ロシア側がぶちきれて
戦争継続を選ぶと万事休すです。
よって、小村寿太郎は
薄氷を踏む思いで交渉します。
ロシア側は
日本の国力の詳細までは
掴んでいないものの、
世界中に4回も外債募集をかけて
いたことは知っていました。
よって、
返済能力ギリギリまで
多額の借金をした日本側が
財政的に苦しいことは
察知していました。
だから、小村の反論に
ウィッテもなかなか引きません。
実は、ウィッテ自身は和平派で
腹の中では幾らかの
賠償金を払ってもいいかな、と
思っていました。
しかし、皇帝ニコライ二世から
一歩も引くなと言われているので
折れるわけには参りません。
遂に、交渉は決裂寸前となります。
小村は日本政府に
「決裂を覚悟されたし。
戦争継続となるやもしれぬ」
旨の暗号電文を打電します。
明治政府の上層部は、
「まずい」と真っ青になります。
戦争再開となれば、
特に陸軍はもう戦える状態ではなく、
即、敗北が待っていたからです。
このピンチをどう乗り切るか?
【10.「渡りに船」のアメリカの仲介】
交渉が決裂となると仲介をした
アメリカのメンツが丸つぶれです。
ルーズベルト大統領は困りました。
実はロシアも、
国内で社会主義勢力の
反乱が起きそうなので
本音は戦争継続は
避けたかったのです。
日本は、
戦争継続能力がもうないので
絶対に交渉決裂は避けたい
というのが本音でした。
突っ張り合う両国を
アメリカがとりなして、
互いの譲歩を迫りました。
渡りに舟とばかりに
両国が乗ります。そして、
水面下で歩み寄ります。
結果、以下の合意がなされました。
(1)ロシアからの賠償金:なし
この点では日本政府は
全面譲歩やむなしとしました。
国家財政上は
非常に痛いのですが我慢します。
(2)ロシアからの領土獲得:あり
北緯50度以南の樺太を、
ロシアから
日本へ割譲を認めました。
(ニコライ2世が土地も
一切ダメと申していましたが、
樺太はロシア領になってまだ
30年だったので、
ロシアのメンツも保てるとして
手放しました。)
(3)沿海州の漁業権を日本側に認める。
これは元々日本側のものでした。
しかし、ロシアが
ウラジオストックに
軍港を構えたころから、
ロシアが奪いとろうとしており、
両国で紛糾していました。
これを完全に取り戻したのです。
(4)長春以南の東清鉄道支線の
租借権を日本に譲る。
日本が奉天の会戦で占領した
鉄道路線のうち、ハルピンから
旅順に伸びていた鉄道を
日本のものにできました。
これが後に
「南満州鉄道(通称・満鉄)」
となって、
満州国の大動脈となります。
(5)旅順・大連の租借権を日本に譲る。
1895年の三国干渉で
かすめ取られた遼東半島を
遂に取り返せたのです。
(6)朝鮮半島での日本への優先権を認める。
日本にとって、
朝鮮半島を列強から守ることが
そのまま防波堤となり、
自国の防衛につながります。
ここに事実上
「ロシアは朝鮮半島に手を出さない」
と国際的に認めさせたのです。
以上がポーツマス条約の合意内容です。
【11.国民には理解できなかった条約内容】
ポーツマス条約の締結で
人類史上初といってもよい
国家総力戦であった
日露戦争は終結しました。
この条約を私なりに評価すると
「よくぞロシアに滅ぼされず、
ここまでの条件をあの大国に
認めさせたものだ!凄い!」
と言える内容であると思います。
もし、負けていれば、
ブラゴヴェシチェンスクの
虐殺事件でもわかるように、
ロシアの奴隷にされたら最後、
黄色人種は
人間として扱われず
なぶり殺しにされても
文句がいえませんでした。
(イギリスもアメリカも、
その虐殺を咎めませんでした。
世界中のどの国も、
世界最強の陸軍国である
ロシアが怖かったのと、
白人から見て黄色人種は
蔑視の対象だったからです。)
ロシアが後にソ連に代わると、
植民支配された
トルコ系民族や
モンゴル系の民族の住む地域は
すべてロシア語を強制され
自国の伝統や言語を禁止されました。
負けていれば同じことが、
日本でも起きていたでしょう。
ご先祖様たちが
2000年以上紡ぎ続けた
日本語や日本人としての
伝統も誇りも歴史も
すべて奪われていたでしょう。
日本人は
日露戦争とポーツマス条約で
そんな恐ろしい侵略から
祖国を守り抜いたのです。
のみならず、世界中の
植民地支配に苦しむ人々に
帝国主義支配打破にむけた
勇気と希望まで与えたのです。
しかし、
条約締結直後の日本国民には
締結内容の意味・価値が
理解できませんでした。
日本国内にその内容が伝わるや否や、
「なぜ、ロシアから賠償金をとらない?」
「勝ったのはこっちだぞ。
日清戦争の時の5倍、10倍は取れ!」
「全権の小村は売国奴か?馬鹿野郎!」
「条約を破棄し、ハルピンに攻めこめ!」
「戦争再開だ!」
と不満を爆発させます。
これが有名な
「日比谷焼き討ち事件」となり、
当時の桂内閣は総辞職までして
事態収拾に臨まねばなりませんでした。
それだけ
日本側の死傷者も多く、
ロシアへの恨みは骨髄にまで
達していたのです。
しかし、
国民が理解できない
最大の原因は
大本営にありました。
大本営は日本国内に、
都合の良いニュースしか
流しておらず、
実はもう、戦争継続は
不可能な状態であることを
ひた隠しにしていたからです。
【12.講話条約の内容を聞いて泣いた人物は?】
一方で、条約締結当時、
陸軍参謀の児玉源太郎は
奉天に戻っていました。
本国から電話で、
条約内容の一報を
知ることになります。
聞いた途端、
彼は受話器を握りしめたまま
「おおおおおお」
という嗚咽とともに、
大粒の涙を人前もばからず
ボロボロとこぼし、
男泣きに泣いたのです。
(写真の右から二番目が児玉)
旅順や奉天、
その他の戦いで
約20万の日本人兵が
死傷しました。
皆、祖国のために、
この勝利の報告を聞くために
何もかも投げ捨てて
それこそ、命を投げ出して
戦ってきたのでした。
そして遂に
世界最強の陸軍を擁する
ロシア帝国を相手に
勝利は不可能といわれた戦争に
見事に勝利したのです。
ロシアを・・・いや
白人列強をぎゃふんと言わせ、
祖国の独立が保たれたのです。
児玉の脳裏には、
死んでいった仲間の顔や姿が
浮かんでいたと思われます。
「死んでいった者たちや
ご先祖様、陛下にも
これで顔向けできる」
「日本を守った。
子孫に未来を残せた。」
そう思ったに違いありません。
だから、大泣きしたのでしょう。
これでホッとしたのか、
開戦前から、及び開戦後も
ずっと続いていた
緊張の糸が切れたのでしょう。
精根尽き果てたかのように
翌年1906年、
児玉は54歳で亡くなりました。
また、戦争終結から7年後。
旅順を落とした乃木稀典司令が
妻とともに自決します。
明治天皇が崩御したからです。
明治天皇に恩を感じていたから
こその、後追い自決でした。
旅順要塞に3回
総攻撃をかけても落とせず、
14万を超す犠牲がでたことで、
大本営部内部で乃木更迭論が
わきあがりました。
その声を
「乃木を替えてはならん!」と
明治天皇が一喝して抑え込み
彼を擁護しました。
そのご恩を生涯、
乃木は忘れませんでした。
同時に、旅順で14万人以上の
日本兵の死傷者を出した責任を
生涯痛感していたことの
自分なりの「けじめ」をつけたのです。
乃木の自決の知らせに
陛下の崩御と合わせて
国民は涙したのでした。
児玉と乃木は長州藩出身でした。
両名とも明治維新前から、
倒幕運動や、
新政府樹立に携わり
維新後も軍人として
戦い続けました。
(日清戦争にも参戦しました。)
そして最後は、
当時の超大国ロシアから
日本を守り、かつ
世界史の転換点を作って
この世を去っていきました。
(写真は、東京都の青山墓地に
ある乃木希典将軍の墓です。
私が直接撮影したものです。)
日本国民を守るため、
そして国家存続のために、
命も捧げて戦った
偉大な先人たちが
数多くいたことを
私たちは忘れてはなりません。
【13.絶望の淵に立った時、日露戦争を思い返せ!】
日露戦争をネタにした
近代史の振り返りシリーズも
どうやら終わりが近づきました。
明治維新から日露戦争までを、
自分なりに調べ、Facebookにも
約6ヶ月間、この 記事の
掲載を続けてきました。
明治維新は
「このままでは欧米列強に
日の本は滅ぼされてしまう」
という危機感から起きた
国家体制を変える
革命でもありました。
維新以降、日露戦争まで
「滅ぼされてはたまらん」
というプレッシャーと恐怖に
当時の日本人は常に
隣り合わせでいました。
特に、
日清戦争終結わずか6日後に
三国干渉をやられてから、
日露戦争が始まるまでの
10年間の日本人の合言葉、
いや国家スローガンが
「臥薪嘗胆」でした。
「いつか必ず
ロシアにお返ししてやる。」
その時代の先人たちは
復讐の気概に燃えていました。
しかし、開戦4年前に発生した
ブラゴヴェシチェンスク虐殺事件で、
ロシア帝国への思いは
復讐心から恐怖へ変わりました。
大国ロシアの奴隷にされたら最後、
黄色人種は人間として扱われず
なぶり殺しになるとわかったからです。
国内の「臥薪嘗胆」の空気は
国家の「滅亡の危機」へと
一気に重たいものになりました。
ロシアの侵略の魔の手から
国家が子々孫々存続できるよう
何としても日本を守らねばならない。
以降、
国民の結束力はさらに高まり
塗炭の苦しみ耐え、
それこそ血を流しながら
上も下も全国民一致で
防衛努力をしたのです。
日露戦争を視察に来ていた
アルゼンチンの観戦武官で
後に海軍大臣にもなる
マヌエル・ガルシア大佐(当時)は
以下のように記録を残しております。
「日本人は貧しい農民から、
大阪の富裕な商人に至るまで、
一人残らず一致団結して
ロシアとの戦いに勝利すべく、
重税や徴兵にも必死に耐えていた。」
「私は、日本海軍兵らと
寝食を長くともにしたが
中堅の将校から
末端の二等兵に至るまで
誰一人上官や、軍上層部の
悪口を言う者がいなかった。
本当に驚きであった。」
「兵は皆、
ロシアとの決戦のみを考え、
いかにして勝つかを熱く議論し、
厳しい訓練と規律に耐えていた。
だが、
一人一人が意気軒昂であった。
これは本当にすごいことだ。」
と記録に残したほどです。
地球の真裏にある
アルゼンチンにも日本の勝利は
インパクトを与えたんですね。
そして、いざ開戦すると
「近代というものの恐ろしさを
血で購った」と評価されるように
20万人近い死傷者と、
10万人以上の未亡人を生みました。
それでも、日本人の結束力と気概は
最後の最後まで衰えませんでした。
結果、本当に大きな代償と引き換えに
日本は独立を守り通し、
ロシアによる植民地化を防ぎました。
日露戦争から100年以上
未来世界の21世紀
に生きる我々から見ると
想像を絶する危機感・苦労の中で
当時のご先祖様たちは
生きていたことがわかります。
中高年のサラリーマンのあなた。
あるいは、組織の束縛の中で
違和感と戦っているあなた。
一個人の人生において
色んな苦労や、 試練がありましょう。
私もそうですが。
ここでは書けない悩みや
苦悩・ストレスが
私にも毎日あります。
生きている以上、
悩みが尽きることはありえません。
しかし、
日露戦争直前の頃の日本は
「ロシアの植民地となれば
奴隷にされるか虐殺される。」
「しかし、戦っても勝つ見込みはない」
と、世界中から思われており
本当に絶望しかない状況でした。
アニメで例えるなら、
宇宙戦艦ヤマトの第1話です。
ガミラスの遊星爆弾でやられ
放射能で滅亡寸前の地球と、
全滅寸前の地球防衛艦隊が
映し出されます。
そこには絶望感しかありません。
そして、沖田艦長が言います。
「見ておれ悪魔め、
わしは命ある限り戦うぞ。
決して絶望はしない。
例え最後の1人になっても、
わしは絶望しない!」
当時のロシア帝国は
日本から見れば
ガミラスのような
悪魔の存在であり、
沖田艦長の発言は
当時の日本人の心境に
非常に近いものがあると思います。
あるいは
伊藤博文が金子堅太郎を
アメリカに送る際に発した
言葉にも通じますね。
一個人の人生の状況が
日露戦争直前の絶望状態より
ひどい、ということは
まずありえない、と
私は思います。
人生にくじけそうになった時、
壁にぶち当たった時、
あるいはメチャクチャ辛い時、
自殺まで考えたくなる時、
私たちは深呼吸して
日露戦争の歴史を振り返りましょう。
日露戦争を振り返れば、
先人の勇気や
土壇場の底力・知恵、
最後まで諦めずにやることで
道が開ける・・・・ことが
きっとできるとわかるはずです。
そして、
絶望・苦難からもう一度
立ち上がることが
できるのではないでしょうか?
このことを
中高年のサラリーマンの
覚醒ナビゲーターとして
あなたに伝えたくて、
一緒にシェアしたかったのです。
教科書ではあまり触れられない
エピソードにスポットをあて
日露戦争の記事を掲載してきました。
もちろん、第2次世界大戦後の
東京裁判史観で洗脳されてしまった
日本人の自虐史観の払拭もしたい
という思いも兼ねて連載しました。
こんな私の思いが伝わり、
一人でも共鳴してくれる方が
おられれば幸いです。
日露戦争をネタにした
近代史振り返り記事は
ここで一旦終了いたします。
拙い内容でしたが、長きに渡り
読んでいただき感謝します。
当塾では、
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