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近代の歴史を振り返る4 奉天の会戦と日本海海戦

前回からの続きです。
(近代史の振り返り5回シリーズの第4弾。)

日露戦争の最大の激戦
旅順要塞の攻防戦で
日本は14万人もの死傷者を
出してようやく落としました。

しかし、まだ大陸では
満州方面の奉天に
ロシア陸軍本隊が控えていました。

さらには海からは
バルチック艦隊が
日本に接近していました。

この危機を
先人らはどうやって
切り抜けていったのでしょうか?

一方で、
21世紀のこれからの時代は
古い価値観が崩れていき、
大きな変化と
激動が訪れることは
ほぼ間違いないでしょう。

そんな不安な時代ゆえに、
今よりもっと困難で
(滅亡するかもしれないという)
絶望的な状況下だった
100年以上前の
我が国の祖先らの努力に
学べる点は非常に多いと
私は思います。

先人らの
知恵と足跡に敬意を払いつつ、
現代に生きる我々は
そこから未来に生かせる
教訓を得たいと考えます。

さらに言えば、
奉天の会戦と、
後にバルチック艦隊との
日本海海戦では、
またまた奇跡が起こり
天が日本を助けます。

そのことにも
触れていくことで、
大いなる神仏が
日本を応援していた
証拠であると
私は信じたいと思います。

なお、私がなぜここまで
日露戦争に深く解説するのか?

その理由は別のブログ記事を
ご参照ください。(下記リンク参照)

 https://miyanari-jun.jp/2017/05/26/nichiro-war-history/


【1.陸上の関ヶ原=奉天の会戦】

天下分け目の奉天の会戦。
ロシア陸軍がいた
奉天の町には
旅順港のような
ベトン(コンクリート)で
固められた要塞や
大量の機関砲は
幸いありませんでした。

それでも奉天は
満州方面でも重要な拠点で、
ここを
どちらの国が押さえるかが
勝敗を決することになります。

よって、両軍が
持てる兵力と火力の
全てをぶつけ合っての
総力戦となりました。

戦線の長さは60キロを超え
大砲、騎兵部隊、歩兵が
あちこちで激戦を繰り広げます。

結果、
両軍合わせ10万を超える
死傷者が出ます。

旅順に続き、日本軍は
大きな被害をだしてしまいます。
しかし、
今回はロシアも同じでした。

大山総司令官や、
旅順を実質的に落とした
児玉源太郎も必死に戦いますが
やはり、彼我の兵力の差が
大きいので苦戦します。

日本軍は
ここまで連戦連勝でしたが、
兵力も砲弾もかなり消耗し、
(国家予算の約7倍ものお金を
外国から借りていて、破産寸前)
第三軍に至っては疲労困憊状態。
しかも、酷寒氷点下での戦闘です。

物資もお金も、兵の心身とも
奉天では限界に近づいていました。

結果、長くなり過ぎた
戦線の維持が困難となり
日本軍は総崩れの危機に直面します。

遂に日本もこれまでか?

しかしながら、
まだ日本軍には運がありました。

敵司令官のクロパトキンは
世界最強の旅順要塞を落とした
乃木希典率いる第三軍が
日本軍に合流したことを
極度に恐れていました。

一方、日本軍側では
疲労困憊の第三軍には
負担を軽くすることも考えて
主力の第一、二、四軍とは
別の隠密行動をとらせます。

実はこの作戦が効いてくるのです。

【2.ノギだ! ノギがでた!!】

ここからは「坂の上の雲」の
ドラマと小説の両方の
シーンから引用します。

海軍参謀の秋山真之の兄、
秋山好古(よしふる)
率いる騎兵隊が
総崩れになりそうになった
自軍の戦線を立て直すべく、
総勢37万の敵陣の背後に
わずかな手勢三千あまりで
密かに迂回して回りこみ
乾坤一擲(けんこんいってき)
の奇襲をかけます。

もちろん、失敗すれば
死が待つ決死の奇襲でした。

日本軍では
劣勢を挽回したり、
多数の敵を崩すためには、
織田信長が仕掛けた
桶狭間の戦いのような、
わずかな手勢で機を逃さず
奇襲をかけるという戦術を
伝統的に受け継いでました。

ところが、ロシア陸軍では
フランスのナポレオン式の
軍学を学んで重宝していました。

 (19世紀初頭にナポレオンに
攻め込まれ苦しんだロシアは
国を挙げてナポレオン式の
陸軍を真似て軍を育成し、
強化しようとしたからです。)

ナポレオンは常に
敵より多数の兵力で
(敵の二倍から三倍の
兵力を集中させて)
相手を叩き潰す戦術を
重視していたため、
少数兵力で、敵の隙や
チャンスを捉えて奇襲する
戦法を採用しませんでした。

その影響でロシア軍には、
わずかな手勢で奇襲をかけて
不利な形勢をひっくり返す
戦術や発想がありません。

敵将クロパトキンは
秋山騎馬隊による奇襲が成功し、
自陣の背後を撹乱されたことに
大いに驚き、こう言います。

 「ノギだ。ノギがでた!」

多大な犠牲を出しながらも
不屈の精神で世界最強の
旅順要塞を落とした第三軍を
極度にクロパトキンは
恐れていました。

この時、第三軍はロシア側の
背後(北側)ではなく、
西側から密かに近づいて
攻撃をかける直前でした。

しかし、第三軍の姿を
まだ確認できていなかった
クロパトキンは
背後に現れた日本軍を
乃木希典率いる第三軍だと
勝手に思い込んでくれたのです。
( 第三軍がロシア軍に姿を
現すのはこの後でした。)

クロパトキンはこう考えました。
 
「我が軍の背後をついた
日本軍の騎馬隊の数は
偵察隊の報告では三千人程?
そんなはずはない。
敵はもっといるはずだ!」

「そんなわずかな手勢で
大軍に攻撃を仕掛ける
ことはありえない。」

「偵察隊がまだ見つけていない
日本兵が、我らの背後に回って
きていると考えるべきだ。」
 

少数兵力による奇襲戦法を
知らないクロパトキンは
日本軍の大軍が
特に、乃木希典の第三軍が
自分たちの背後に
密かに回り込んできたと
勝手に勘違いしてくれました。
(日本には幸運でした。)
  

ただし、この勘違いには
伏線があったから起きました。
 
日本軍の第一軍が、
鴨緑江の戦いで
霧と闇に紛れ
ロシア軍の側背部を奇襲し、
ロシアが大敗した記憶も
クロパトキンには
あったのでしょう。

 

騎兵隊の奇襲に驚くクロパトキンに
ロシア軍の西側から
本物の第三軍が ぐるっと迂回して
第一、二、四軍と
合流するように攻撃に加わります。

奉天に立て籠もるロシア軍の
東と南側は既に日本軍と
ぶつかり合っていました。

そこに北側から騎兵隊の奇襲と、
西側から第三軍が
同タイミングで攻めることで
四方から日本軍が一気に
攻め込んできたと彼は勘違いします。

そして遂に
帝都ペテルブルクの総司令部に
「我、包囲されたり」
と暗号電報を打ちました。
 

あれ?
秋山好古率いる騎兵隊って
わずか3000人ぐらいでしょう?
  
一方で
ロシア陸軍は総勢37万もいて
世界最強の陸軍と言われていた
はずですよね?

確か「コサック騎兵」もいて
メチャメチャ強かったはず。

 

わずか3000人の秋山騎兵隊に、
数で勝るコサック騎兵を
ロシアがぶつけたら
日本軍の奇襲なんてすぐに
蹴散らされるのでは?

そんな不利な状況で
秋山騎兵隊はどうやって
奇襲を成功させたのかな?
と思う方もいるでしょう。
 

その通りです。
ロシア陸軍には当時
コサック騎兵がいました。

機動力に長け神出鬼没、
馬術や剣術に長けた
世界最強の騎兵隊でした。

秋山好古(よしふる)率いる
騎馬隊が敵陣背後から
奇襲をかければ当然、
その数倍のコサック騎兵が
雪崩を打って迎え撃ちにきます。
 

江戸時代260年の太平が続いた
日本には、戦国時代にはあった
騎兵を養い強化する伝統が
(武田信玄の騎馬軍団などが
有名でしたよね。)
完全に途絶えていました。

  
そのため、
明治維新以降に作った
日本の騎兵隊は急ごしらえでした。
だから、
まともに戦ったらなら
百戦錬磨のコサック兵に
勝つことは不可能でした。
 

そこで、秋山好古は考えました。
にわか仕立ての日本騎兵隊が
コサック騎兵に勝てる方法を。

【3.世界最強のコサック兵を破るには?】

秋山好古(よしふる)は、
海軍参謀の弟・真之と同じく
天才アイデアマンでした。 
(NHKドラマでは阿部寛さんが
秋山好古を演じましたね。)

ひ弱な日本騎兵を強化する
アイデアを思いつき実践します。

そうすることで襲い掛かってきた
強力なコサック騎兵を
完膚なきまでに叩きます。

その勢いで背後から
敵陣中枢に切り込んで行き
奉天のロシア軍を撹乱しました。
だからこそ、クロパトキンが
秋山隊の奇襲に驚いたのです。
 
では、秋山好古が編み出した
コサック騎兵撃退法とは?
 

ヒントは
奉天の会戦の直前の
「黒溝台の戦い」にありました。
(1ヶ月ちょっと前でした。)
 
コサック騎兵の大軍10万が
奇襲をかけてきました。
その猛攻に押しこまれ
苦境に日本軍は追い込まれます。

この際、ある兵器を使うことで
秋山はわずか8千の手勢で
かろうじて敵10万の
進撃を食い止めました。

それは「機関銃」と「野戦砲」でした。

  
旅順で日本軍はロシアの機関銃に
散々苦しめられたことから、
機関銃を輸入し始めました。
秋山はそれを黒溝台の陣地に設置。

奇襲をかけてきたコサック騎兵に
銃弾を一気に浴びせ、足を止めました。

次に野戦砲の榴散弾を敵陣めがて
打ち込み、これを吹っ飛ばします。

 

こうすることで
兵力数で圧倒的に不利で
あったにもかかわらず
世界最強のコサック騎兵を
何とか撃退できたのです。
 

機関銃が要塞戦だけでなく
野戦で活用されたのは世界史上、
黒溝台の秋山隊が初めてでした。

この戦いで秋山好古は閃きます。

「日本騎兵はコサック騎兵に
 まともにぶつかっても勝てない」
「コサック騎兵には、機関銃と
 野戦砲なら勝てる。効果も絶大」
「機関銃と野戦砲を馬にひかせよう」
「コサック兵が現れたら、馬で戦う
 ことはせず一旦騎兵は降りよう」
「降りて、引っぱって来た機関銃や
 野戦砲でコサック兵を撃てばよい」

結果、
騎兵としての従来の闘い方を
日本は捨てることになります。
 
そして、 騎兵に
機関銃や野戦砲を持たせる
新戦法を秋山は編み出したのです。

 

奉天に立て籠もる
敵の背後へ
奇襲を仕掛けるにあたり、
秋山は騎兵隊に
機関銃と野戦砲をひかせます。
 
特に機関銃は
「工廠式繋駕機関砲」
と言われる馬で牽引するタイプの
車輪付のものでした。
(野戦砲にも車輪付きのものが
ありました。)

当時の騎兵隊は、
スピードと機動力を確保するため、
砲兵や歩兵らは連れず、
もちろん
大砲や機関銃も引かずに
騎兵単独で
行動・突撃するのが常識でした。
 

その常識にとらわれず
コサック騎兵が接近してきたら
自分たちは馬から降り、
引っ張ってきた
機関銃と野戦砲を撃つのです。

結果、秋山騎兵隊よりも
圧倒的に多い兵力で
襲い掛かってきたコサック騎兵は
あっと言う間に壊滅したのです。

 「騎兵・機関銃・野戦砲のコラボ」
戦術の効果は絶大でした。

旅順の要塞戦では
ロシア軍に「機関銃」を駆使され、
日本側は14万もの死傷者をだし、
大きなダメージを受けました。
 
そのお返しを奉天でやったのです。
 

ちなみに、
「騎兵・機関銃・野戦砲のコラボ」
の出現によって
騎兵単独による敵陣攻撃戦法は
事実上、無力化していくのです。
 
その意味では、
世界最強のコサック騎兵に
歴史舞台から去るよう
引導を渡したのは
秋山好古であると申してよいでしょう。
 

ドラマ「坂の上の雲」では
渡辺謙さんのナレーションで
こんな一節が入りました。
 
「四国は伊予松山に三人の男がいた。
この古い城下町に生まれた
秋山真之は、
日露戦争が起こるにあたって
勝利は不可能に近いといわれた
バルチック艦隊を
滅ぼすにいたる作戦を立て、
それを実施した。

その兄の秋山好古は、
日本の騎兵を育成し、
史上最強の騎兵といわれる
コサック師団を
破るという奇蹟を遂げた。」
(3人目の正岡子規は割愛します。)

奉天の戦い後の騎兵の役割は
「偵察」
「敵地の奥深くに素早くもぐり込む」
という目的活用に限られていきます。
 

しかしそれも後に、
「偵察」の部分は航空機の登場によって
「敵地への潜り込み」については
キャタピラーつき車両の登場によって
とってかわられます。

こうして騎兵は世界中の陸軍から
完全に消えていくことになります。
 (米軍や自衛隊に、儀式用の騎兵は
今もわずかにいますが、大規模な
騎兵隊がいないのはそのためです。)

【4.苦戦する日本軍に、天が再び味方する!】 

さて、
秋山騎兵隊らの奇襲が奏功し
敵司令官のクロパトキンは
帝都ペテルブルクの総司令部に
「我、包囲されたり」
と暗号電報を打ったことを
先ほど説明しました。

そして、遥か北方の
シベリアのハルピンにまで
自軍を撤収させることを
全軍に命じます。

  
ハルピンは
開通したシベリア鉄道で
首都サンクトペテルブルクから
運ばれてきたロシア軍が
多数集結している拠点です。

そこまで戻って合流すれば、
日本軍の2~3倍の兵力となります。
 
フランス陸軍から学んだ
優位多数の兵力を形成して
再び日本軍を迎え撃つことが
可能になると考えたのでしょう。

30万を超える大軍を
戦闘の真っ只中で、
急遽「撤収」と命令されても
すぐには出来ません。

ロシア軍に動揺が走ります。
「撤収だあ?」
「奉天の東側は味方が押しているのに?」
「南側でも優勢なのに、撤収命令がでた
と言うことは俺たち負けているのか?」

 

戦線が60キロにも及んでいました。
当時は今ほど通信網も
発達していないので、
30万を超す軍勢となると
味方の動向が把握・共有ができず
全体としては勝っているのか、
はたまた負けているのか
全く分からない状態でした。
 

動揺したロシア軍内では
規律が乱れ、
命令違反が起き始めます。
占領していた
奉天の一般市民への
略奪行為も始まり、
収拾がつかなくなります。
 

動揺し、撤退を始めるロシア軍に対し
日本軍は追撃を開始します。

しかし、兵力数で優位にある
ロシア軍の抵抗も激しく、
日本軍にまた被害が出ます。
 

そこに、天がまた日本軍に味方します。
「奉天有史以来の大砂塵」が襲ったのです。

 

それが南風であったため、
日本軍には追い風、
ロシア軍には向かい風となりました。
ロシア兵は
目を開けることができなくなります。

ここでも
天が日本に味方したのです。
大いなる神仏は白人のロシアではなく
黄色人種の日本に援軍を送ったとしか
私には思えてなりません。

結果、奉天のロシア軍は総崩れとなり、
パニック状態でハルピンまで敗走します。

 

敵将クロパトキンは敗走後も負けを認めず
「これは戦略的撤退である」と主張します。
 
(ハルピンまで引っ込むものの、
シベリア鉄道で本国から
兵員の増強をもらえれば、
優位多数の兵力を形成し再び
日本軍を迎え撃つことが可能になる。
そのための作戦行動だ
と、言いたいのでしょう。)
 

しかしながら、ロシア帝政府は
その主張を認めず「敗北」と認定。
クロパトキンを更迭し、
別の司令官に替えてしまいました。
 

こうして日本は
全世界のマスコミが注目する中で
両軍合わせ60万を超える会戦で
兵力数で劣後しながらも
辛くも勝利したのでした。

これにより、日露戦争はここまで
(1)仁川沖の海戦、
(2)鴨緑江の戦い、
(3)南山の戦い、
(4)黄海海戦、
(5)蔚山(うるさん)沖海戦、
(6)遼陽の戦い、
(7)旅順要塞攻防戦
(8)黒溝台の戦い
(9)奉天の会戦
で遂に9連勝となりました。
 

世界中が
「大国のロシアを相手に
日本やるじゃん。すごい!」
と沸き返ります。

特に欧米列強、いや白人による
植民地支配に苦しむ国々では、
日本の快進撃のニュースが
どれだけ現地の人々に勇気を与えたか。

「強い白人でも負けるんだ」
「俺たちにもやれば日本のように
 白人に勝つことができる。」

こうした希望が、後の独立運動と
植民地消滅の原動力となり
世界史を変えていくことを
これまで繰り返しお伝えしました。

しかしながら、
連戦連勝の日本といえども、
ここで深刻な事態が発生していました。


【5.限界を迎えた日本陸軍】

奉天の会戦で勝って
町を占領できました。

しかしながら、
これ以上戦う力は
全く残っていませんでした。
(もちろん、その真実は
最高の国家機密でした。)
 

ここまでの戦いで約1年間
戦い続けた兵はへとへと。

今までに合計20万人近い
死傷者も出して日本陸軍は
文字通り満身創痍でした。

 
砲弾や食料や物資も底をつき、
ハルピンに逃げたロシア軍を
たたきつぶしに行く余力は
もう陸軍にはありませんでした。
 

国力の小さな日本としては
(当時国家予算はロシアの8分の1)
戦争を続けたくとも
もう続けられない状態でした。

一刻も早く戦争を終わらせねば・・・。

大山巌総司令と、
参謀の児玉源太郎はそう考えます。
 

維新を若き日に体験し
明治新政府を一から作り上げ、
かつ、日露戦争の最前線で
指揮もとったこの二人は
欧米列強から見た日本のひ弱さや、
ロシアの強大さを熟知していました。

奉天の戦いの後、
大山も児玉も「戦争終結」「講和」
を急ぐよう、東京の政府に
働きかけを開始します。
 

司馬遼太郎は「坂の上の雲」を
書き上げた直後のインタビューで
こう述べています。

 
「大山、児玉は
戦争に勝った勝ったと
言って有頂天になっている
東京の政府を常に刺激して、
現場の最前線から
水をかけて早く講和をやれ、
と言っているんですからね。
現地の総司令部から
本国の政府を
牽制しているわけです。

世界の歴史の中で、
現場の将軍たちが
しかも連戦連勝の姿で進んでいる
現場の将軍たちが政府に向かって
そういう進言をし続けた例は
まずありません。」
 

一方、
奉天の敗戦を知っても
ロシア皇帝・ニコライ2世の
戦意はまだ萎えていませんでした。

【6.ロシア帝国逆襲の秘策】

ニコライ二世の腹の中はこうです。
「こしゃくな極東の
マカーキー(猿)めが!
こちらにはまだ虎の子、
バルチック艦隊が残っておるわ!
これが
ウラジオストック港に入れば
一気に形勢は逆転じゃあ!」

実はその通りでした。

奉天で勝利したことで
日本は事実上、
満州から遼東半島を
押さえることに成功しました。

しかし、それはあくまで
日本海~東シナ海~渤海湾の
制海権を日本がとっており
本国から大陸への物資補給が
できているからです。

もしも、バルチック艦隊が
ウラジオストックに入港し、
制海権を取り返されると
大陸への物資補給路を断たれます。

こうなると、満州に駐留する
味方の陸軍は干上がり、
ロシア陸軍からの逆襲を
押さえることもできなくなり
敗れてしまうでしょう。
そうなれば日本は
滅亡の道を辿ることになります。

しかし、裏を返すと
ロシア帝国にとってバルチック艦隊は
まさに「最後の切り札」です。

このバルチック艦隊を叩き潰せば、
極東への進出・南下の野望を
止めることができるのです。

映画「二百三高地」でも
奉天での会戦の勝利後、
世界は次なる海上決戦に
注目することになったと
ナレーションが入りました。

日英同盟が効いて、
バルチック艦隊の足は
かなり遅くなったことは
お伝えしましたが、
奉天の戦いの後、二か月半後に
いよいよバルチック艦隊は
日本近海にやって来ます。

日本の存亡の懸かった
最後の決戦が間近となります。


【7.陛下の前で、敵の撃滅を宣言】

ロシア帝国は20世紀初め、
世界最強の陸軍を有していました。
(日本陸軍の約5~10倍の兵数)

では、海軍は?
世界最強ではありませんが、
日本と比べれば戦力差は歴然でした。
(海軍はイギリスが世界最強でした。)

海軍の艦船保有総トン数が、
日露戦争開戦前で
日本が26万トンに対し、
ロシアは80万トンで約3倍。
(バルト海、黒海、太平洋の大きく
3か所に艦隊を展開していました。)

こんな非常に不利な状況でも、
日本は勝たねばなりませんでした。

ちなみに、
バルチック艦隊を迎え撃つ前に
旅順やウラジオストックにいた
ロシア艦隊を撃滅できたことで
敵海軍全体の4分の1を
消すことに日本は成功していました。

しかしながら、
バルチック艦隊戦に敗れれば
それまで積み上げてきた勝利や
苦労のすべてが水の泡となります。

ロシアは持てる海軍力の
3分の1超に相当する
主力艦隊をヨーロッパから
はるばる極東に派遣し、
形勢挽回を狙ってきたのです。

それを叩かねばなりません。
 負ければ滅亡が待っているのです。

連合艦隊司令長官である
東郷平八郎に
課せられた使命は
誠に重かったのです。
そのことに関して
以下のエピソードが残っております。

ロシア旅順艦隊を撃滅後、
東郷平八郎は皇居に参内し、
海軍大臣・山本権兵衛や
島村参謀など幕僚らと共に、
陛下に拝謁する機会がありました。

明治天皇が東郷に
「露国の増遣艦隊(バルチック艦隊)が
くるというが見込みはどうか?」
と質問します。

東郷はこれに対して
「粉骨砕身以て必ず敵を撃滅して
宸襟(しんきん)を安んじ奉らん」
と回答します。

これを読んだあなたは
「ほう、そうか。」
「天皇陛下の御前だから
リップサービスしたな」
ぐらいにしか
感じないかも知れません。

ですが、そうではありません。
国の存亡が懸かる場面で、
しかも国家の最高責任者の前で
ここまで決意表明するというのは、
実は大変なことでした。

普段、東郷は無口で
大言壮語したことはありません。

その彼が、しかも
国家最高責任者の陛下の前で
「必ず敵を撃滅」と申したので
同行した海軍大臣の山本権兵衛らは
大変驚き、皇居退出後に
「東郷のやつ、陛下の前で
とんでもないことを言上した
ものだ」とぼやいたといいます。

なぜなら、
バルチック艦隊を撃滅するのは
至難の技だったからです。

理由は簡単。
艦隊数で日本軍は明らかに
劣勢だったからです。
(詳細は次回述べます。)

バルチック艦隊が
ヨーロッパから出港する時、
周辺の北欧の国々などは皆
「遂にロシアが本気を出した。」
「極東の小さな島国日本も
これまでだな。可哀想に。」
「今までは連戦連勝だった
ようだが、さすがに
この大艦隊相手ではなあ。」
という目で見ていました。

そう、世界中が
強大なバルチック艦隊に
日本が勝つのは不可能と
考えていたのです。

おまけに、単に勝てばよい
というのみならず
ウラジオストック港に
敵に逃げ込まれないよう
全滅しなければなりません。

それを実現してこそ、
初めて東シナ海などの
制海権を確保できます。
満州や遼東半島に
駐留する陸軍に
物資補給の継続も
日本から可能となります。

「敵艦隊撃滅なくして
日本に平安訪れず」
ということです。

こんな難しい状況下なのに
国家最高責任者の前で
「必ず敵を撃滅」すると
宣言したのです。

 負ければ後世の歴史に
「アホな艦隊司令長官」
「能天気な司令に託したから
日本は滅亡した」
として記録されるかもしれない。

そんな重い十字架を
東郷平八郎は背負ったのです。

この超難題の解決策を見出すべく、
東郷は作戦参謀の秋山真之に
敵艦隊撃滅作戦を練らせます。

【8.敵が通りそうなルートは3つ】

海軍作戦参謀の秋山真之は
海上決戦に向けて
幾通りも作戦を練ります。

その作業の途上で幾つもの
悩ましい問題に直面します。
特に悩ましかったのが
「敵艦隊の航路」でした。

バルチック艦隊が目指す
ウラジオストック港へは
以下の三つ
(1)対馬海峡
(2)津軽海峡
(3)宗谷海峡
を通るルートがありました。

しかし、
どの航路を敵艦隊が通るのか
日本海軍には
分かっていませんでした。

対馬海峡で待ち伏せしても、
宗谷海峡側に回り込まれ、
無傷でウラジオストックへ
スルーされるとアウトです。

では、日本側は連合艦隊を
二手か三手に分けて待ち構えるか?

いやいや、それは危険です。
バルチック艦隊は戦艦8隻を含む
合計38隻もの大艦隊でした。

対する日本側の連合艦隊は
火力の大きな戦艦は4隻。
巡洋艦などを全部加えても
合計27隻。数では劣勢でした。

つまり、手分けして待つと
少ない戦力がさらに減るため
各個撃破、突破される
危険性が高くなります。

よって、分散待ち伏せ戦法は
採用しませんでした。

ちなみに歴史の資料を見ると
日本海軍は合計100隻以上と
書かれたものが一部あります。

しかしながら、その数は
バルチック艦隊を偵察、または
位置を大本営に伝達するための
哨戒艇80隻程の数を、
上記の27隻に加算した数でした。

哨戒艇は小さく足の速い船が多く、
いわばスパイ活動専門の船です。
大砲や魚雷を搭載していないので
戦闘に使える艦船ではありません。

よって、海戦を交えるに際し
日本軍は数では不利な状況でした。

哨戒艇なんて雑魚のような
船ばかりでなく、戦艦や
巡洋艦を増やすべきでは?
という声が聞こえてきますね。

当時はレーダーや航空機、
さらには偵察衛星がないので、
外洋上の敵の位置を
早く摑むためには
多数の哨戒を出して
目視で見つける必要が
あったからでした。

そうすることで、
敵が三つのルートのうち
どこを通ろうとしているかを
早く掴もうとしたのです。

では、戦力を分散せず一箇所で
待つとすればどこにするか?

私が東郷司令長官なら、
「ウラジオストック港の入口」
で待ち構えることを考えます。
3つのルートに関係なく
必ず敵艦隊が現れるからです。

しかしそれは、
当時の海戦を知らない
素人の発想でした。
この回答は「不正解」です。

では、なぜ不正解なのか?

敵のゴールのそばで戦うと
最終目標の敵艦隊「撃滅」が
できないためです。

旅順艦隊との「黄海海戦」で
一度の洋上戦闘ですべての
敵艦を撃沈(または無力化)
することは不可能、との
教訓が得られました。

日本が開発した新兵器である
「下瀬火薬」は非常に火力が強く
敵艦に着弾すると砲弾が炸裂し、
焼き払って大損害を与えることが
可能ではありました。

しかしながら、
一撃で撃沈(または無力化)する
ことはなかなか難しかったからです。

21世紀の今ならば、
イージス艦から発射した
対艦ミサイル「ハープーン」
たった一発で敵艦を無力化
(または航行不能に)できますが
1905年当時は違います。

そのため、
ウラジオストック港のそばで
待ち構えて砲雷撃戦を行っても、
沈められず逃がした敵艦は
(いくらかのダメージを与えても)
全て港に逃げ込まれてしまいます。

港内に逃げ込まれてしまうと、
旅順艦隊がそうであったように
敵の活動を封じるのは
非常に困難になります。
(港の閉塞作戦は失敗しました。)

こうなると日本軍はお手上げです。

では、旅順と同じように
陸軍でウラジオストックを
落とせばよいではないか?

いいえ。
既に述べたように
奉天の会戦の結果、
日本陸軍はもうこれ以上
戦うことはできない状態でした。

兵は疲労困憊で力尽き
二十八サンチ榴弾砲の
砲弾も底をついていました。

となると、
一度の艦隊決戦のみならず、
逃げた敵艦を追いかけ、
(哨戒艇を多く出して網を張り)
再度補足・先回り・包囲して
複数回攻撃を仕掛けて殲滅する
作戦を組まねばなりません。

そのために
時間的にも、エリア的にも
ウラジオストックから
距離の離れた場所で
幾重にも待ち構え、
洋上戦闘を行う作戦を
秋山は考え準備を進めます。

【9.敵は対馬海峡を通ると予想!】

東郷司令長官は悩んだ末に
対馬海峡をバルチック艦隊が
通るはずだ、と予想します。
 
理由は以下の通りでした。
 
(1)津軽海峡には
  日本軍が機雷を敷設している
  ことを敵も知っている。
  これに触れて爆発・沈没する
  ことを敵艦隊は恐れるであろう。
  よって、津軽海峡通過
  は避けるだろうと考えた。
 
(2)宗谷海峡を経由すると
  非常に遠回りとなり、
  結果、途中の洋上で
  燃料の石炭を補給する
  必要が出るはず。
  燃料補給のため、洋上で
  停止しているところを
  日本軍に狙い撃ちされたく
  ないだろうと考えた。
 
(3)日本遠征のため、
  万里の波濤を乗り越え
  二万キロ以上もの道のりを
  航海したバルチック艦隊は
  かなり疲れている。
  一刻も早くウラジオストックに
  入港したいはず。
  ならば、
  最短のコース・対馬海峡を
  選ぶだろうと考えた。
 
と、いうことで
対馬海峡から
日本海にかけてのエリアが
決戦場になる可能性が高いと
予想し連合艦隊は準備します。

そこで、対馬を臨む
朝鮮半島南部の軍港、
鎮海湾で連合艦隊は
待ち構えることとしました。
 
ここなら、数十隻に及ぶ
連合艦隊が停泊でき、
対馬まで50キロほどと近い
格好の場所でした。
 

一方でまだ一つ、
悩ましいことがありました。
それは、バルチック艦隊が
日本に来る時期(季節)でした。

【10.来るなら、5月に来てくれ!】

バルチック艦隊が
日本近海に現れるのはいつか?
作戦参謀の秋山真之は
「5月」に来て欲しいと祈ります。

ウラジオストック港のある
日本海は
霧が発生し易い場所です。

特に濃霧が出ると、
当時はまだレーダーがないため
敵艦隊を見過ごし、
とり逃がす危険性がありました。

濃霧に紛れてウラジオストックに
入港されると日本は滅亡です。

(ちなみに、あなたは
ウラジオストックがロシア語で
どういう意味かを知ってますか?
「東方を征服せよ」です。

ウラジオストックから見て
東にある国はただひとつ。
そう、日本です。
ロシアの狙いは日本でした。
つまり、この軍港は
19世紀にロシア人により
占領され作られた時から
日本征服を目的とした
基地だったのです。)

一方で、冬の日本海は
豪雪を降らせる寒気が通る度に、
波が非常に荒れます。
そうなると戦闘には不向きです。

かと言って、全く波がなく
晴れの中で海戦を行うのは
味方が敵に丸見えで、
数で劣勢な日本軍は不利です。

つまり、日本海の状態が
(1)濃霧がないこと、
  (薄い霧なら味方を隠して
  くれるのでちょうど良い。)
(2)波が荒れる冬場でないこと
(3)適度に波があること
の条件がそろう時期に敵に
きてほしいと秋山は願います。

そんな都合のいい時期は
日本海にあるのでしょうか?

あるんです。

 一年を通じ、
5月がその時期であることを
秋山真之は知っていました。

では、史実はどうだったか?

バルチック艦隊は10月中旬に
ヨーロッパを出港しました。

同盟国のイギリスが
アフリカやインドで
バルチック艦隊の寄港拒否等
様々な妨害工作を
やってくれたおかげで
敵は遠回りとなり、かつ、
航行速度は大きく落ちました。

結局、日本近海に到達するのに
7ヶ月余りもの時間を要しました。

10月中旬に出港して7ヶ月。
何と、日本には翌年の
5月下旬にやってくるのです。

まさしく、秋山が望んだ通りに!
これも、天佑と申して良いでしょう。

【11.バルチック艦隊、姿を消した?】

東郷司令長官は熟慮を重ね
次の決断を下します。

(1)敵艦隊は対馬海峡を通るだろう。
 よって、対馬を臨む
 軍港・鎮海湾で連合艦隊は待つ。

(2)敵は数が多い。
 正攻法では勝てない。
 よって丁字戦法でいく。
 ただし、黄海海戦での
 丁字戦法失敗を踏まえ改良する。

(3)敵がくるまで猛訓練する。
  (この訓練で、砲弾の命中率が
   倍になったことは以前
   お伝えしましたね。)

さて、その間にも
バルチック艦隊は近づいていました。

味方のスパイ、さらには
同盟国の英国の商船や
日本の商船から
敵艦隊の位置情報が入ります。

英国植民地に寄港できないため
バルチック艦隊は
ロシアと友好関係のあった
フランスの植民地である
ベトナムに寄って燃料補給や
整備・食料補給などをします。

5月9日 入電 ベトナム・カムラン湾に到着。
5月14日入電 敵艦隊、カムラン湾を出港。
5月19日入電 敵艦隊、バシー海峡を通過。

作戦参謀の秋山は、
敵艦隊の日本到着を
5月23日と予測します。

敵の燃料運搬船の速度が最も遅く、
それにあわせて航行するはずと
計算した結果でした。

ところが、
バシー海峡を通過したとの
情報を最後に
日本軍は敵艦隊を見失います。

5月23日になっても、
翌日24日になっても
敵は一向に姿を見せません。

いったいどこに行ったのか?
秋山はうろたえました。

「もう現れてよいはず。変だ。まさか、
敵は津軽か、宗谷海峡に行ったのか?」
「もしそうなら、ただちに連合艦隊
を急行させねばならないが・・・」
「それにしても、哨戒艇のどこからも
連絡がないというのはどういうこと?」

秋山だけではありません。

当時は日本国内すべてが、
いよいよ近づいた敵の大艦隊に
戦々恐々、固唾を呑んで
来たるべき洋上大決戦を
祈りながら見守っていたのです。

【12.皇后様の夢枕に立った人物とは?】

国家の存亡がかかった
決戦の直前の5月、
国内にある噂がひ広がります。

皇后樣の夢枕に
一人の武士の霊が立ちました。
その武士は皇后様に
こう告げたそうです。
「この度の海戦、
心配するに及ばず!」と。

そう言って消えたとのことです。
そこで「この武士は誰だ?」と
詮索がなされます。
 

「こたびのことは海軍のこと故、
海軍の開祖・坂本龍馬に相違ない」
と、いうことになりました。

実は明治時代、
この時まで坂本龍馬は
意外にも全く無名でした。
 

この夢枕事件を契機に、
一躍有名になります。
その結果、
現在のように坂本龍馬のことを
知らない者はいないように
なっていくのでした。

さて、敵艦隊の日本到着を
1905年月23日と
計算していたのにも拘らず
23日はおろか、24日もこない。

5月19日以降、
敵の消息を見失っている
日本側は非常に焦ります。
 
1905年当時は
レーダーも偵察衛星も
ないので一度見失うと
探すのは大変だったのです。  

狼狽える秋山に対して
東郷司令長官は
「敵は必ず対馬を通る!」と
揺らぐことなく
艦隊を鎮海湾で待機させます。

 翌5月25日。
1日中待ったが
偵察のために外洋に出している
80隻近い味方の哨戒艇からの
敵発見の連絡がありません。

いよいよおかしい。
さしもの東郷も
ここで次の指示を出します。
「5月26日正午を待って
それでも敵艦が現れない場合は
連合艦隊は北上する」と。

バルチック艦隊はいったいどこに
姿を隠したのでしょうか?

そのぎりぎりのタイミングの
26日午前に以下の情報が
偵察部隊から入電します。

「敵艦隊は25日、石炭運搬船を
上海に入港させた模様」と。

危ない、間一髪でした。
あと数時間この知らせがなければ
連合艦隊は鎮海湾から北へむかう
ところでした。
(これも天佑かもしれませんね。)

この知らせでわかったことは2つ。

1つ目。
上海付近に来たということは
敵はまだ、太平洋にでて北には
回っていないようであること。

2つ目。
燃料である石炭運搬船を
艦隊から切り離したということは
もう洋上で燃料補給はせず、
一気にウラジオストックをめざす
つもりだろうということでした。

 津軽や宗谷海峡ルートの場合、
遠回りになるので途中で
燃料補給する必要がありました。

補給しないというということは
最短ルートの対馬海峡を通る
可能性が高いと推測できたのです。

では、予定通り対馬海峡で
待ち構えることでもう大丈夫か?
といえば、100%断定できません。

石炭運搬船切り離しが、
もしも敵の攪乱作戦だったら?
対馬ルートとみせかけて
北に回り込んで逃げられたら?

バルチック艦隊が対馬海峡を
目指して向かっているという
味方の哨戒船からの
情報があるまでは
断定するのは危険と判断します。

東郷司令官は
もう1日だけ、
翌27日正午まで待っても
バルチック艦隊の確認ができない場合、
津軽方面に向かおうと再決断します。

 果たして、
いつ発見できるのでしょう?
敵艦隊はどのルートを通るのか?

【13.暗号電文「タタタタ」】

運命の5月27日の未明、深夜です。

哨戒偵察にでていた
仮装巡洋艦「信濃丸」は
五島列島西方40海里の地点を
航行していました。

真っ暗闇の中、左舷側に
1隻の汽船の明かりを発見します。

観察しているとこの汽船は
後方マストに「白・赤・白」の
信号灯を掲げていました。

不審に感じた信濃丸は
この船を追跡します。

そして、日の出が近くなった
4時30分にその汽船に近寄ります。
そして、この船が何かの信号の
やり取りしていることを発見します。

付近に別艦船がいる可能性があると
判断し見張りを強化したその時でした。

信濃丸は船首左舷方向に
十数隻の艦艇と数条の煙を発見します。

ドラマ・坂の上の雲では
「敵艦隊発見!」と
見張りをしていた水兵が叫びます。
次に、艦長が双眼鏡で確認します。

間違いなく、バルチック艦隊でした。
時に1905年5月27日、午前4時45分。

信濃丸は直ちに転舵し
全速力でその場から脱出します。

同時にモールス信号無線機で
「タタタタ」と打電します。
これこそ「敵艦見ユ」として
知られる暗号通報でした。

その後も午前6時過ぎに
味方の巡洋艦に引き継ぐまで
信濃丸は敵艦隊の位置を知らせ続け、
確実に対馬海峡を目指していることを
大本営と連合艦隊に報告しました。

しかし、ロシアの艦船はなぜ
明かりをつけていたのでしょう?
消していれば見つからないのに。

バルチック艦隊も馬鹿ではありません。
できれば、日本軍に見つからないよう
ウラジオストックまで行きたいのです。

よって、日本軍に見つからないよう
深夜航行すべく「明かりは消せ」と
全艦に灯火管制を敷いていました。

しかし、38隻もの大艦隊の中で
1隻だけ灯火管制の命令を無視した
病院船があったのです。
その船はオリョール号といいます。
(信濃丸が見つけた汽船の明かりは
このオリョール号のものでした。)

歴史に「たら・れば」はないのですが
もしも、オリョール号が
明かりを消して航行していたら・・・

もしも、バルチック艦隊全艦が
深夜、日本側の哨戒網にかからず
27日正午まで発見がされなければ・・・

この発見があと数時間遅ければ
日本の連合艦隊は北上し、
まんまと敵艦隊には
ウラジオストックへ入られ
日本は滅亡していたでしょう。

この場面でも、
神の見えざる手や
日本を応援しようという意思を
感じるのは私だけでしょうか?

日露戦争では、このような奇跡が
どれだけあったことでしょう。

【14.天気晴朗ナレドモ浪高シ】

「敵艦見ユ」の報告を受け
参謀の秋山真之がとびおきて
連合艦隊の作戦室にやってきます。

そして、
バルチック艦隊の位置や
間違いなく対馬海峡に
向かっていることを確認します。

連合艦隊作戦本部は
かねてからこの時のために
予め用意していた電文
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、
連合艦隊ハ直チニ出動、
コレヲ撃滅セントス 」を
大本営にむけ打とうとします。

その時、秋山真之が
「まて」と部下に
打電作業を止めます。
次の一文を追加します。

「本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」

これが歴史に名高い、
決戦に向かう直前の電文となります。

最後の一文を解説します。

「天気晴朗」には、
霧に紛れて逃げられる
心配がない、または
敵を狙いやすいという意味を、
「浪高し」には、
喫水線の高いロシア艦船は
波浪がある分、照準が定まりにくい。
逆に我が方に有利だという意味を
秋山は込めたといわれます。

艦隊数では劣勢でも、
「天の利」は我らにあると伝え、
大本営で待つ
上層部メンバーの
不安を払拭しようとしたのでしょう。

ところがこの電文が打たれた明け方、
天気は晴朗ではありませんでした。

対馬海峡には霧がかかっていたのです。
27日未明、濃霧が発生したのです。

バルチック艦隊司令長官の
ロジェトヴェンスキーは
「天運は我に有り」と思います。
「この霧が続けば、
たとえ日本軍が待ち伏せしていても
紛れてすりぬけることができる。」

日本側にしてみると、
濃霧は非常にまずいです。
当時はレーダーはまだなく、
視認しようにも
濃霧では見えないからです。

しかし、一方で快晴でも困りました。

快晴では、鎮海湾に隠れている
味方の艦隊が丸見えで
早期に敵に発見されやすいからです。
対馬海峡での待伏せに気づかれると
バルチック艦隊に
北に迂回されかねません。

日本の連合艦隊にとって
理想とする天候は
艦隊を隠してくれる「薄霧」でした。

果たして、日本軍は濃霧のまま
不利な状況で戦うのでしょうか?

すると、またもや奇跡が起きます。

濃霧だった気象状況が
バルチック艦隊が対馬海峡に
近づくにつれて
徐々に「薄霧」になりました。

このおかけで敵は
こちらの待ち伏せに気づくことなく
当方の予定作戦海域に入ってきました。

そして、こちらも出撃します。

いざ、海戦となれば
もう霧は邪魔です。

敵をはっきりと見渡せるよう
「晴れてくれ!」と
秋山以下、乗組員らは祈ります。

すると、またも奇跡が続きます。

開戦を待っていたかのように
霧はすっと消えて
何と快晴になったのです。

しかも、低気圧通過後の強風のため
適度に波が荒れていました。

秋山が電文で追加した
「天気晴朗なれども浪高し」という
名文通りの状況が実現したのです!

(当時、日本でも気象予報は
始まっており、中央気象台が
総力を挙げて気象観測を
行っていました。

5月27日の作戦海域の天候は
低気圧通過した後、
日中には回復し、強風が
吹いて波が高くなると
予報を出していました。

その情報があったからこそ、
秋山は朝のうちは濃霧でも、
後に晴れるという確信を持って
あの名文を打電させたのです。)

秋山は
バルチック艦隊が来るなら
5月に来てくれと
祈っていました。

こうした気象状況に
なって欲しいと
思っていたからですが、
本当に願っていた通りの時期に、
理想とする気象状況が
現実化したのです。

これを天祐と言わずして、
何と表現すべきでしょうか?
私はこの時、神仏のご加護が
日本にあったと信じます。

バルチック艦隊司令長官の
ロジェトヴェンスキーは
朝、濃霧だったことから
「天運は我に有り」と思い
対馬海峡に向かいました。

しかしながら天は
日本に味方していたのです。

【15.皇国の興廃、この一戦にあり!】

1905年5月27日午後1 時39分、
連合艦隊は水平線上に
バルチック艦隊を捕捉しました。

  
連合艦隊に対して敵艦隊は
正面から向かってきていました。

東郷司令は
改良した「丁字戦法」を
仕掛けるために
一旦敵艦隊の側面入るべく、
面舵をとり距離をとります。

午後1時55分、
歴史上有名な「Z(ゼット)旗」を
旗艦・三笠が掲げます。
 
ドラマ・坂の上の雲では
秋山が「掲揚、Z(ゼット)挙げー!」
と号令を出します。

 

日本の運命のかかった
「丁字戦法」との艦隊砲雷撃戦は
「Z(ゼット)旗」を掲揚した
10分後に迫っていました。
 

その信号旗の意味は
「皇国の興廃、この一戦にあり!
各員一層奮励努力せよ!」

 

三笠に続く全艦の乗組員を
鼓舞するメッセージでした。

わたしが、この史実を
初めて知ったのは大学生の時でした。
胸が熱くなり、涙しました。
 

大国ロシアが送りこんできた
強大なバルチック艦隊を眼前に、
数では劣勢な日本軍。

負けたら滅亡する。
敵を撃滅することだけが
未来への道を開けるという
建国以来の究極の場面です。
 
ここまで積み重ねた連戦連勝も、
2000年続いた国の命運も
この一戦で負ければ
すべて水の泡となるのです。

祖国で帰りを待つ家族や、
天皇陛下を守るために
命を賭して戦う
男たちの心境を思う時、
武者震いをした記憶があります。

 
その場にいた兵士の気持ち、
緊張感はどれほどだったことでしょう。

【17.海の関ヶ原・日本海海戦】

最初の砲雷撃戦は
対馬海峡で行われるのですが
最終的に敵との勝負がつくのは
日本海での海域でしたので
「日本海海戦」と呼ばれます。

数ではロシアが圧倒的に有利でした。
 (バルチック艦隊が38隻、
 日本連合艦隊は27隻。)

これ程大規模な近代海戦は
当時としては世界史上初でしょう。
 

さて、水平線上に敵艦隊を捕らえ
Z旗を出し、艦隊の全乗組員の
志気を高めた日本の連合艦隊。
敵との砲雷撃戦開始まで、
あと10分の位置まできました。
 

旗艦・三笠の艦橋には
東郷司令官長官や、秋山参謀が
立って指揮を執っていました。

 

砲撃手が測距儀をみて
バルチック艦隊の先頭を走る
旗艦・スワロフとの距離を
刻々、艦橋に報告します。
 

「距離12000(メートル)!」
 

黄海の海戦では、この時点で
「丁字戦法」を仕掛けて
敵を取り逃がし、失敗しました。
敵艦隊との距離がありすぎたのです。
 
改良した丁字戦法では
距離をもっと詰めて
実行せねばなりません。

よって、東郷平八郎は
この時点ではまだ動きません。
 

ちなみに、当時の互いの
射程距離は8000 mでした。
8000m園内になれば
敵の砲弾が雨・あられと飛んできます。
 

砲撃手「距離10000!」
・・・東郷はまだ動きません。
 

砲撃手「距離9000!」
・・・東郷はまだ動きません。
 
「丁字戦法」を仕掛けるなら
そろそろ船体を回頭しないと
敵主砲の射程内にはいります。
部下たちは焦りだします。
 

砲撃手「距離8500!」
・・・東郷は微動だにしません。
 

敵の射程に入る直前となりました。
「丁字戦法」発動はまだか?
秋山以下、部下たちも
さすがに動揺を隠せません。
 
「閣下?」
「閣下!」

砲撃手「距離8000!」
 

NHKドラマ・坂の上の雲では
砲撃長が焦りのあまり大声で
「敵のどちら側で戦うのですか?」
と、ここで聞いてしまいます。
 

その瞬間、東郷平八郎の
右腕が高くあがり、
次にさっと自分の胸の前に降ろし
L字型に腕を曲げ号令します。
「取り舵!150度回頭!」

 

世に名高い
「東郷ターン」の始まりでした。
三笠の船体が左に回頭を向けます。
 

 味方の艦船も三笠に続きます。 

ここからは
NHKドラマ・坂の上の雲の
渡辺謙さんの
ナレーションから引用します。
 
「この時、世界の海軍戦術の
常識を打ち破ったところの
異様な陣形が指示された。
丁字戦法の始まりである。」
 

三笠の回頭をみて
バルチック艦隊の
司令・ロジェトヴェンスキーは
「われ勝てり!
東郷は狂ったか?」と歓喜して
胸の前で十字架を切ります。

 

三笠の 転回が終わるまでは、
速度16ノットとしても10分。

まずいことに戦艦や巡洋艦は、
回頭中は砲撃ができません。

よって、
日本軍はその間無抵抗なのです。
それをロジェトヴェンスキーは
知って命じます。
「三笠を撃沈せよ!
黄金の10分を無駄にするな!」
 

渡辺謙さんのナレーションから
再度引用します。
 
「要するに、
東郷は敵前でUターンをした。
Uというよりも
アルファ運動というほうが
正確に近いかもしれない。
後続する各艦は、
三笠が左折した同一地点に来ると
よく訓練されたダンサーたちのような
正確さで左へ曲がってゆく。
それに対して
ロジェストウェンスキーの艦隊は
二本もしくは二本以上の
矢の束になって北上している。
その矢の束に対し、
東郷は横一文字に遮断し
敵の頭を押さえようとしたのである。
ただこの戦法は、場合によっては
味方の破滅を招く恐れもあった。」
 
「各艦が次々に回頭している間
味方にとっては
射撃が不可能に近く、
敵によっては極端に言えば
静止目標を射つほどに容易い。」

 

敵艦隊から発射された砲弾が
雨・あられと三笠に飛んできました。

周囲は無数の水柱が立ちます。
水しぶきが甲板に、艦橋に入ります。

敵砲弾の命中確率は3%でしたが
一斉射撃で数百発撃ってきたので
一発、二発、三発、四発・・・
と三笠は被弾します。

 

船内に負傷者や戦死者も出始めます。
はたして三笠と連合艦隊の運命は?

【18.生死と命運をわけた、恐怖の10分間】

黄海海戦での失敗を反省し、

今回は敵の射程内に入ったところで
東郷は丁字戦法を仕掛けました。
 
なぜ、そんな危険を冒したか?  

理由は、
距離8000mなら敵は逃げず、
こちらを狙ってくれるからです。
 
しかし、
敵が砲撃を仕掛けてくる間は、
こちらは回頭中ゆえ砲撃できない。

その間の多少の被弾は覚悟しよう、
と考えます。

回頭が完了してこちらが
敵の頭を丁字の陣形になって
押さえることができれば
側面に向けた我が方の砲門で
一気に反撃が可能になる・・・。
東郷は、そう考えたのです。

 

いわば「肉を切らせ骨を断つ」
捨て身の奇襲戦法、
それが改良型・丁字戦法だったのです。
 

回頭が終了するまでの10分間、
旗艦・三笠や、味方の艦隊は
敵艦隊から集中砲火を浴びました。
(秋山参謀は飛んできた砲弾の数は
「少なくとも300発以上」と
後に説明しています。)

 

その間は反撃できないので
どれだけ乗組員らは怖かったことか。
その10分間は、
恐ろしく長かったことでしょう。
まさに、生死をわける10分間でした。
 

結局、三笠は40発も被弾します。
(NHKドラマ・坂の上の雲では
奇跡的に無傷だったかのように
描かいてますが史実と異なります)

150度の左折ターンのため、
敵艦隊にさらしていた右舷に
集中して被弾しました。
 
つき刺さった敵砲弾の重さのため
三笠の艦体は右に傾いた程でした。

40発もの被弾したらもう致命傷では?
現代の戦闘なら、その通りです。

しかし幸いなことに
当時のロシアの艦船の砲弾には
そこまでの破壊力は
ありませんでした。

先の黄海海戦で、三笠は95発も
被弾しましたが、ここでも幸い
致命傷には至りませんでした。
 

そして、10分が経過。
連合艦隊は回頭を終え、
敵の猛攻に耐えきりました。
生死をわける
恐怖の10分間をかいくぐったのです。

(被弾を受けても航行機能や
戦闘機能に支障がなかった
旗艦・三笠には、
やはり 天のご加護があったと
感じます。私だけでしょうか?)
 

そして、敵旗艦・スワロフに
並行すること成功します。
距離は6400m。
十分、三笠の射程内です。 

さあ、ここから
連合艦隊が反撃を開始します。
「撃ち方、始め!」

敵よりも少し早い速度を生かして
バルチック艦隊旗艦・スワロフに
覆いかぶさるようにして
(上空から見た陣形は、
「丁」の字というよりも
カタカナの「イ」の字に
近い形になっていました。)
味方の各艦から
集中砲火を始めました。

日本海軍には、
以前お伝えした新兵器
「下瀬火薬」と「伊集院信管」
が砲弾に搭載されていました。

特に「下瀬火薬」は
非常に火力が強く
破壊力がダントツでした。

しかも、敵艦船の甲板を
砲弾が打ち抜くと
伊集院信管が反応して
砲弾自体がただちに炸裂する
仕掛けになってました。

ものすごい火力で炸裂し、
敵艦内部を大きく破壊します。
そして、焼き払うことが
下瀬火薬で可能になりました。

よって、
ロシアの艦船からの砲弾とは
全く違っていたのです。

どういうことか、
もう少し詳しく説明しますね。

ロシアの砲弾は、
日本の艦船に命中しても
甲板や壁など直撃した場所のみ
貫通・破壊・突き刺さるという
言わば、ただの鉄の塊でした。

これに対し日本海軍の砲弾は
ひとたび着弾すると、
直撃した箇所のみならず、
物凄い圧力と熱で炸裂して
周囲も破壊し、焼き払います。
(現代使われている砲弾の
先駆けのような仕組みです。)

しかも、
日本海軍の命中精度は
ロシア側の2倍にまで
猛訓練で高まっていました。
(軍事のある専門家によると
3倍だったという方もいます。)

高い命中精度での
集中砲火にプラスして、
火力が桁違いに高い砲弾が
当たるとどうなるか?

三笠は、40発被弾しても
まだ健在でしたが、
敵の艦船は数発被弾すれば
紅蓮の炎に焼かれてしまいます。
(参謀の秋山は「大火災を起こして」
と後に表現しています。)

日本海海戦は
翌朝まで、逃げた敵の艦船を
追撃することで続きますが、
大勢は、反撃開始後の
当初の30分で決します。

その最大の理由は、私は
下瀬火薬の効果が絶大であった
からであろうと推測します。

38隻ものバルチック艦隊は
文字通り「あっという間に」
最初の30分で猛火に包まれ
ほぼ戦闘不能になります。
 

バルチック艦隊の被害は
最終的には
沈没21隻、拿捕6隻、8隻が武装解除。
戦死者は何と5000名。

翌日(1905年5月28日)、
目的地のウラジオストックに
何とかたどり着いた船は・・・・
巡洋艦1隻と、駆逐艦2隻
のみでした。
(主力の戦艦12隻は全滅です。)

この生き残った3隻はいずれも
日本軍の攻撃でぼろぼろでした。

終わってみると
一方の日本側の損害は
水雷艇3隻のみ(戦死者117名)
という完全なる勝利でした。

【19.東郷司令長官、微動だにせず!】

かつて、NHKのTV番組
「その時歴史は動いた」
で紹介された日本海海戦の
感動のエピソードを一つ
あなたにもお伝えします。

東郷平八郎は
海戦当日のまる一昼夜、
旗艦・三笠の艦橋(露天)で
指揮をとっていました。

戦闘は夜に及びました。
そして、我が方が完全勝利を
手中にしたことを確認してから
東郷はようやく艦内に戻ります。

この時、東郷司令が立っていた
ところには「乾いた足跡」が
左右二箇所くっきり
靴の形通りに残っていた
と記録があります。

どういうことでしょうか?

甲板はもちろん、
露天の艦橋も、三笠は
船体全部がずぶ濡れでした。

理由は、
敵の砲弾が何百発も飛来し
周囲は水柱がたち、幾度も
水しぶきを被ったためです。

「乾いた足跡」が左右二箇所
くっきり残ったということは、
冷たい水しぶきを浴びようが、
敵砲弾を受けて艦体が揺らごうが、
東郷平八郎は「微動」だにせず
指揮をとり続けた証拠です。

ピンチの時、部下というものは
トップの顔色や姿を必ず見ます。

微動だにせず仁王立ちしていた
その姿に、部下の将兵はきっと
安心して戦ったことでしょう。

多分部下の将校が
「閣下、艦内にお入りください。
ここにいては危険です!」と
勧めても、東郷は頑として
聞き入れなかったと推測します。

東郷は多分、
「将兵皆がずぶ濡れになって
命をかけて戦っているのに、
私一人が艦内でぬくぬくと
していられようか!」と
切り返したのではないか?
と私は推測します。

「その時歴史は動いた」で
そのエピソードを知った時、
祖国の存亡が懸かった
極限の緊張の場面でも
露天の艦橋で立ち続けて
「微動」だにしなかった
東郷の姿を思い浮かべ
将としての器の大きさに
私は心から感動しました。

さて、
日本海海戦では連合艦隊が
一方的かつ、短時間で
完全な勝利を収めました。
こんな決着がついた
大海戦は世界史上初めてでした。

乗船・従軍していた各国の
マスコミの記者や観戦武官らは
「こんな見事な海戦は前代未聞!」
と一斉に世界中に打電します。

大国・ロシアの誇る大艦隊を
極東の小国・日本が打ち破った、
しかも完全なる一方的な勝利で、
という大ニュースは全世界を
駆け巡ってサプライズを与えました。

それは同時に
ロシア皇帝・ニコライ2世の
極東への南下政策、とりわけ
中国や朝鮮、日本を植民地化
するという恐ろしい野望を
粉砕した瞬間でもありました。

虎の子・バルチック艦隊は
日本に連敗していた
極東での戦局をひっくり返し
ロシアに主導権を取り戻す
最後の切り札でした。

それを完全に破壊したのですから。

日本海海戦で
日本が勝ったことが世界中に
どれほどインパクトを与えたか?

【20.日本の勝利が世界史を変えた】

日本海海戦の勝利で日本は
対ロシア戦10連勝となります。

内訳は以下の通りです。
(1)仁川沖の海戦、
(2)鴨緑江の戦い、
(3)南山の戦い、
(4)黄海海戦、
(5)蔚山(うるさん)沖海戦、
(6)遼陽の戦い、
(7)旅順要塞攻防戦
(8)黒溝台の戦い
(9)奉天の会戦
(10)日本海海戦 

もし、一つでも負ければ
即、日本は滅亡するという
文字通り崖っぷちの戦いの連続でした。
(その間、奇跡も数多くありました。)
そのすべてに日本は
苦戦しながらも勝利しました。

白人・ロシア帝国が絶対優位で
日本は滅ぼされると考えていたため、
世界中のだれもこの結果を
予想していませんでした。

従って、世界に与えた衝撃は
めちゃめちゃ大きかったのです。

何度かお伝えはしておりましたが
この衝撃は世界に広がり、
当時の人類に蔓延していた
白人のみが優れているという世界観を
(有色人種は白人に劣るとする考え)
粉砕していくのです。

「人種による優劣の差はない」

これこそが、私は
大いなる神仏の思いであり、
地上をそのように変えていこう
とする計画があったと思います。
だからこそ、日本に数々の奇跡が
起きたのだと信じます。

この結果、
帝国主義や植民地支配を
地球上から駆逐していく
歴史的な発端となります。

世界中で抑圧されていた
植民地の民衆が
「我々も、白人に対抗できる!」と
希望と勇気を持つようになり
独立運動を行う契機となります。

(但し、日露戦争だけで
地球上からすぐに植民地は
なくなりませんでした。
地上から
植民地が駆逐されるには、
第2次世界大戦と、
その後数十年を
経なければなりませんでした。)

ところが後に
日本は第二次世界大戦で敗れます。

日本の底力を恐れたアメリカは
白人に逆らうことがないよう
GHQを通じて
巧妙な支配と骨抜き工作を
アメリカは日本に6年間施します。

結果、
日本は戦争犯罪国だと洗脳され、
我々日本人は長く、
そうした歴史的真実から
目を曇らされてしまいました。

もう、戦後70年以上が経過してます。

現代の中学校や高校で使う
日本史や世界史の教科書には、
そんな呪縛や洗脳を脱して
日本が果たした歴史的意義を
もっと強調して欲しいところです。

実際にどのような衝撃と
植民地支配や、
白人優位の偏見・価値観が
破壊されていったかについて
その実例を詳しく紹介しましょう。

長くなりましたので紹介は
別の記事に掲載しますね。

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