ようこそ、「(中高年)サラリーマンの松下村塾」へ

近代の歴史を振り返る3 日露戦争・旅順要塞攻防戦

当塾の学習項目の中の
大きな柱である「歴史」。
今回は、前回からの続きで
近代史の振返り・第3弾です。

日露戦争の前半では
天の助け・奇跡もあって
破竹の連勝を成し遂げます。

しかし、それに怒った
ロシア皇帝ニコライ2世は
遂に虎の子・バルチック艦隊を
極東に向かわせ、日本を
本気でつぶしにかかります。

この危機を
先人らはどうやって
切り抜けていったのでしょうか?

一方で、
21世紀のこれからの時代は
古い価値観が崩れていき、
大きな変化と
激動が訪れることは
ほぼ間違いないでしょう。

そんな不安な時代ゆえに、
今よりもっと困難で
(滅亡するかもしれないという)
絶望的な状況下だった
100年以上前の
我が国の祖先らの努力に
学べる点は非常に多いと
私は思います。

先人らの
知恵と足跡に敬意を払いつつ、
現代に生きる我々は
そこから未来に生かせる
教訓を得たいと考えます。

なお、私がなぜここまで
日露戦争に深く解説するのか?

その理由は別のブログ記事を
ご参照ください。(下記リンク参照)

 https://miyanari-jun.jp/2017/05/26/nichiro-war-history/


【1.日英同盟が放つ、ロシアへのボディブロー】

前回掲載の「近代の歴史を振り返る2
日英同盟締結~日露戦争開戦初期」
の続きとなります。

ロシアのバルチック艦隊が
来襲することが判明しました。

そして、ロシアの
旅順艦隊と合流され、
挟み撃ちにされると
日本艦隊はもう勝てません。

そうなると、
日本周辺の制海権を握られ、
朝鮮半島への補給路も断たれます。

大陸に送った味方の陸軍も
干上がってしまい、
ロシアの陸軍が勢いづくと
日本の滅亡につながります。

よって、
バルチック艦隊到着の前に
何とか旅順艦隊を撃滅して、
挟み撃ちに遭わないよう
にする必要性がでてきました。

しかし、旅順港の周囲は
ロシアの近代要塞が、
べトン(コンクリート)で
壁を固め、かつ
港の外に向けては
砲門・魚雷を多数用意しているため
海軍は旅順艦隊に手を出せません。
(旅順港の封鎖にも失敗しました。)

旅順港の奥深くに
逃げ込んだ敵艦隊を叩けない。
 
そこで、困った海軍は
陸軍に泣きつきました。

陸から旅順要塞を突破し、
港内の敵艦隊を砲撃、
撃沈して欲しいと。

その結果、
旅順を包囲していた
乃木希典率いる
第三軍の役割と目的は、
当初の
旅順要塞に立て籠もる
ロシア2個師団の
封じ込めから
「要塞攻略」及び
「旅順艦隊撃滅」
に変わります。

しかも、バルチック艦隊到着までに。

実は、ここで
日英同盟が役に立つのです。
歴史の教科書でも
あまり触れられていませんので
知らない方が多いと思います。

イギリスは
南アフリカのブール戦争に
大軍を投入したことで疲弊したので、
日本に直接援軍こそ
出せませんでしたが
バルチック艦隊に
強烈なボディブローを
打つことに協力します。

そのボディーブローとは?

バルチック艦隊の日本到着を
遅らせてくれたことです。

世界地図を見てください。
当時はスエズ運河が
もう完成していました。
(スエズ運河はエジプトにあります。)

バルチック艦隊は、
本来であれば地中海から、
スエズ運河を通って
紅海を経てインド洋を通る
ルートを進みたかったのです。

理由は、その方が
日本遠征までに要する
航路の道のりが短くなり
早く到達できたはずでした。

ところが、
スエズ運河はイギリスが
作ったものであり、
かつ、エジプトは当時
イギリスの重要な植民地でした。

イギリスは日本と
対ロシアを意識して
日英同盟を結んでいたので、
日本と戦っているロシア軍が
「スエズ運河を通りたい」と
申しても拒否しました。

つまり、妨害ですね。

その結果、バルチック艦隊は
はるばるアフリカ大陸を
東から南下して
大昔の大航海時代のように
大廻りして日本に向かうのです。

つまり、希望峰を経由して
インド洋に出ざるを得ない
遠回りのルートとなったのです。

これは、スエズ運河を通るよりも
遥かに時間と労力がかかりました。
結果、日本軍は時間稼ぎができました。

陸軍は旅順攻撃と攻略のために、
海軍は敵艦隊を迎え撃つための
準備期間をもらえたのです。

一方、バルチック艦隊は
文字通り、
「万里の波濤を乗り越えて」
はるばる日本遠征に臨むことを
余儀なくされました。

それだけではありません。
アフリカは、当時
南アフリカを筆頭に
多くの国が
イギリスの植民地でした。

そのため、バルチック艦隊は
燃料や水や食料などを
調達しようと寄港したくとも、
イギリスの植民地では
寄港を拒否されました。

これは、日本にとっては
非常に有難い妨害行為でした。

超長距離の航海ゆえ、
途中の寄港地で
船の整備や乗組員を
休ませねばなりませんが、
寄港地を制限されたので
それもままなりませんでした。

おかけでバルチック艦隊は
寄港地に入ると乗組員の
逃亡が頻発します。

また、
燃料の無煙炭を調達すべく
フランスの植民地に寄港しますが
イギリスの妨害工作もあって
良質の無煙炭は入手できず
質の悪い石炭しか
得られませんでした。

結果、エンジン出力が上がらず
艦隊の進むスピードも落ちます。
(整備も十分できなかったので
舟底に付着物もつき、これも
スピードをにぶらせました。)

1904年の10月下旬に
バルト海のリバウ港を出発した
バルチック艦隊でしたが、
日本にいつ到着したかというと
1905年5月27日です。

7か月余りも要したんですね。
これなら、日本に着く頃には
ロシア兵はへとへとです。

長い航海が
ボディブロー のように効いて、
敵乗組員の気力と
体力を奪っていきました。


【2.バルチック艦隊到着までに行った準備】

さて、7か月の
貴重な時間ができたことで
日本海軍は
3つの準備を行います。

一つは
黄海海戦で被弾した
日本側の艦船の修理です。

ロシア旅順艦隊からの
必死の反撃もあって、
旗艦・三笠は
後部の砲身が破壊された他、
95か以上の損傷をうけました。
これを修理をするのに
必要な時間がもらえました。

三笠は、日本が大金を払って
イギリスのヴィッカース社に
依頼して製造した最新鋭艦です。
その砲身を
スエズ運河経由で
短期間で送ってもらい
修復に成功します。

二つ目は猛訓練です。

修理が完了した後は
対馬海峡や鳥取砂丘近海で
バルチック艦隊との決戦を
想定した軍事演習を行います。

その甲斐あって、
砲弾の命中率3%が
6%にまで向上します。

たった6%?
と、笑ってはいけません。

当時の世界の海戦で
常識とされていた命中率3%の
倍の精度になったというのは
実は驚異的な進歩なのです。

三つ目は決戦を想定した
海上作戦を練りこみます。

 黄海の海戦で失敗した教訓から
丁字戦法を見直します。

前回は、敵艦隊との距離が
12000メートルで
仕掛けて失敗しました。

そこで、敵主砲の射程内に
入るリスクはあるものの、
もっと近い距離で、
丁字戦法を仕掛ける方が
成功する確率が高まる
ことを発見します。

よって、
来る日本海海戦では、
改良した丁字戦法で
ロシアに勝負するのです。

そして、
敵艦隊を迎え撃つために
他に7つもの海上作戦を
参謀・秋山真之は考えだし、
周到に準備しました。


【3.陸軍は旅順要塞攻撃を開始!】

では、
日本陸軍の方はどうだったか?

海軍から
旅順要塞攻略を頼まれた
陸軍の第三軍は
第一次総攻撃を
1904年8月19日に開始します。

8月10日の黄海海戦、
8月14日の蔚山沖海戦に続き、
短期決戦で勝って
国力消耗を最小限にしたいため
旅順攻撃開始も
かなり急いで始めました。

急いだのはよいのですが、
旅順要塞との闘いの前に
6000名もの死傷者を出した
南山の要塞攻防戦で
ロシアの近代要塞が
いかに堅固で、
殺傷力が高いかを分析し
十分に備えるべきでした。

旅順要塞は
前衛の南山要塞より強力で
当時世界一の鉄壁さを
誇っておりました。

それゆえ、
要塞中枢までたどり着けるのは
「鳥しかない」とロシア軍は
信じていました。
(当時は航空機がなく、空爆が
できませんでした。)

よって、
周到な戦術を練って
立ち向かわねば
とんでもない被害が
でることになるのです。

ところが、
第三軍司令官の乃木希典も
参謀の伊地知幸介も、
敵要塞に正面から
(一番防御力の高い部分から)
立ち向かうという
昔ながらの戦法を採用します。

悲しいかな、南山での教訓が
生かされておりません。

要塞正面から攻める
従来の戦術は
野戦砲レベルの火力で
要塞の壁や、武器を破壊できて、
初めて通用する戦法なのです。

しかしながら、
ベトンで固められ
世界一の防御力を誇る
旅順要塞にその戦術は通用しません。
野戦砲が効かないからです。

それを理解していなかったことが
悲劇の始まりでした。

しかも、第3軍の6中隊で、
36門の砲門を持っている連隊に
与えられた砲弾は
一日につき、わずか5発ずつでした。
(砲弾を節約した理由は、
敵司令官クロパトキン本隊との
決戦に備え、第一軍、二軍、四軍
に砲弾を優先するためでした。)

つまり、限られた火力しかない
厳しい状況でもあったのです。

そんな状況下で
日本軍は野戦砲を
旅順要塞に向かって撃ち、
第一次総攻撃を開始します。

ロシア側は
べトンで固められた壁で
守られているので
野戦砲の砲弾ぐらいでは
びくともしません。

それでも一旦は、
日本からの砲弾で
破壊されたふりをして
ロシア側は攻撃をやめます。

日本軍は
「野戦砲の砲弾が効いたらしい。
敵の攻撃がやんだ。突撃は今だ!」
と、騙されて
歩兵をつっこませます。

するとどうなったか?
落とし穴のような
巨大な外堀が用意されていて
そこに何百人、何千人の
日本兵が落ち込みます。

堀に落ちた日本兵を
待ち構えていたのが
機関砲(マキシム機関銃)でした。
機関銃が雨嵐となって襲います。
しかも殺傷力の高い、国際的に
使用が禁止されていたダムダム弾です。

日本兵も銃で撃ち返しますが、
敵はべトンの壁に守られ、かつ
一秒間に何発も撃てますから
かなうはずもありません。

日本兵が
次々に殺されていきます。
なぶり殺しです。

それでも乃木司令は
突撃を繰り返します。
伊地知参謀も作戦を変更しません。

バタバタと味方が倒れます。

映画「二百三高地」では
敵の機関砲でバタバタと倒れ
死んでいく日本軍の姿が
リアルに再現されています。

そして、映画のバックで
さだまさしさんの
「防人の詩」の悲しい
メロディーが流れます。

あまりに悲惨な映像と
悲しいメロディーが
私は映画館で見た時に
印象に残りました。

結果、旅順要塞への
第一次総攻撃の死傷者は
何と61000人になりました。

実際に 死体の山で
地形が変わるほどであった
と記録に残っています。

大本営は驚きます。
南山の戦いで死傷者は
確か6000名だったはず。

桁がひとつ多い!
報告は間違いではないか?
間違いではありませんでした。

日露戦争が始まって以来の
大きな犠牲がでた瞬間でした。

対抗する方法はないのか?

南山の攻防戦では
海軍の艦砲射撃という
強力な火力援護があって
ようやく落とせたことから、
野戦砲よりも
火力の高い巨砲なら
堅固な要塞攻略に
効果があることはわかっていました。

しかし、旅順港には
日本海軍が近づけず、
艦砲射撃の援護が使えません。

 「今、旅順へもっていっている
大砲(野戦砲)、ああいうもの
ではとても落ちないよ。」
「私は奇抜なことをいうようだが、
二十八サンチ榴弾砲を
送ろうじゃないか。」

小説「坂の上の雲」で、
東京の陸軍省の一室で
大砲研究の世界的権威である
有坂成章(ありさか なりあきら)少将が
参謀本部次長の長岡外史
(ながおか がいし)
に語った内容です。

二十八サンチ榴弾砲。

砲弾の重さは217キロ。
射程距離は7.8キロ。

 当時、日本本土に近づく
敵戦艦を撃沈するために
海岸に設置している大砲です。

日本陸軍はこれを旅順要塞の
べトンの壁を破壊するために
送り込んで使おうと考えます。

戦艦・三笠の主砲が
30センチ口径だったので、
それと遜色のない破壊力を持つ、
明治時代最強の大砲でした。

日本軍は第二次総攻撃から
この二十八サンチ榴弾砲を
旅順攻撃に投入します。

では、強力な大砲が
現地に届いたことで
旅順要塞がすぐに落ちたか?

そう簡単ではありません。

旅順への第二次総攻撃は
バルチック艦隊が
ヨーロッパを出港した直後に行います。

6万を超す死傷者が出た
第一次総攻撃に懲りて
慎重に攻めました。

二十八サンチ榴弾砲は
野戦砲ではできなかった
敵要塞のべトン壁(堡塁)に
傷を与え、一部を崩しました。
敵の砲台や機関銃の一部も
確かに破壊できました。

しかしながら、その全てを
破壊し尽くすことはできません。
砲弾の数に限りもあったからです。

加えて、敵は日本軍に備え
旅順要塞の正面部分(保塁)を、
先に落とした南山よりも
べトン(コンクリート)で
分厚く塗り固めていました。

よって、
榴弾砲を打ち込んだ後に
日本軍の歩兵が「突撃」しても
前回同様、
敵堡塁の外堀に阻まれます。

そこで敵の機関銃の雨・嵐が
待っていたために
攻撃はまたもや失敗しました。

死傷者は3800名でました。

第一次攻撃のような
無茶な突撃をしなかったので
犠牲者は前回より少なかった
とはいえ二回目も失敗でした。

 映画「二百三高地」では
2度目の総攻撃も失敗に
終わったことで
乃木希典司令の自宅に
戦死した大勢の遺族から
恨みと怒りに満ちた石を
投げ込まれるシーンが
描かれていました。

それを、留守を守る
奥さま(乃木静子)や
女中さんたちが必死に
耐えているシーンが印象的でした。

【5.旅順を落とす方法は?】

バルチック艦隊が迫る中、
総攻撃は二度も失敗しました。

どうすれば旅順要塞は
落とせるのでしょうか?

当時の最強の大砲
二十八サンチ榴弾砲を投入した
第二次総攻撃でも
旅順要塞は落ちなかったのです。

大本営は「この大要塞を
正面から従来の正攻法で
突破しようとしても無理。」
と、気づきます。

正面突破は無理でも、
旅順要塞は突貫工事で
急いで作ったために
手薄なところがありました。

それが「二百三高地」でした。

「二百三高地」は
要塞本体から少し離れており、
旅順港から見ると
側背部の位置にありました。

この山頂に登れば
港内の旅順艦隊を一望できるはず。

大本営や、海軍の秋山は
そこに目をつけました。
作戦は以下の通りです。

(1)手薄な二百三高地に
   攻撃を集中して
   ここを占領します。
(2)観測隊を設置し
   旅順港を見下ろします。
   そして、山頂の観測隊と
   麓の司令部を
   電話線で結びます。

(3)後方から、射程7.8キロの
   二十八サンチ榴弾砲を、
   旅順要塞を飛び越えて
   山越えで旅順港内の敵艦隊に
   めがけて撃ちます。
(4)観測隊は着弾地点を測定し
   司令部や二十八サンチ砲台に
  「おしい、海水に着弾した。
   敵艦命中まであと北西へ
   100メートルだった。」
   と、電話で敵艦の位置を知らせます。
 (5)二十八サンチ砲台は、
   方向や角度を修正し、再発射。
(6)軌道修正された砲弾が 命中する!
 

NHKドラマ「坂の上の雲」では
参謀の秋山真之が
分かりやすく こう説明します。

「無理に要塞を落とす必要は
ありません。」
「二百三高地を取れば、あたかも
二階の窓から見下ろして、
一階に石を落とすように
正確に目標を攻撃できます」と。

旅順での最終目的は、
旅順港内の敵艦隊撃滅です。

堅固な要塞を
正面から落とさずとも
側面から迂回してでも
旅順艦隊撃沈を優先しよう。

大本営はそう考えます。

大本営から、あるいは
海軍側(秋山真之など)も
第三軍に対し
敵要塞正面ではなく
迂回して「二百三高地」への
攻撃をするよう説得を行います。

だがここで
第三軍作戦参謀の伊地知幸介が、
頑として、要塞への
「正面攻撃」を主張し譲りません。

伊地知は
「十分な兵と弾丸をよこせ。
ならば落とせる。大本営は
今まで我ら第三軍に十分な
兵と弾をくれたことがあるか?」
「余計な入れ知恵はいらん!」
と、逆に開き直ります。

(確かに第一次総攻撃以来、
1日に使える砲弾の数は
第三軍は制限されていました。)

しかしながら、
弱小新興国の日本が
国家予算の7倍近く
精一杯背伸びして
戦費を外国からも借金して、
それこそ「かつかつ」で
超大国ロシアと戦っているのです。

海軍も陸軍も
潤沢な兵員や
有り余る武器で戦う・・・
なんてことは夢のまた夢です。

むしろ、作戦参謀の役割は
少ない兵や不十分な装備という
厳しい状況下でも
何とか知恵とアイデアを
ひねり出して
勝利に導くことにあるはずです。

作戦参謀・伊地知には
残念ながら
その発想はありませんでした。

いや多分、伊地知も
「迂回して二百三高地を取る」
「山頂から敵艦隊を見下ろす」
という斬新な発想を提示され
「はっ、そうか」と気づいたはずです。

しかし、ここで作戦を替えて、
あっさり旅順艦隊を撃沈したら
過去二回の失敗は何だったのか?

「もっと早く気がつけ!この石頭」
と、責められるでしょう。

そんな恥ずかしいことは
作戦参謀たる伊地知の
プライドが許さなかったのです。

だから、頑なに正面からの攻略に
こだわったと私は推測します。

であれば、
その上司・乃木司令が
「2度も失敗したんだ。
正面突破はもうやめよう。
旅順側背面の二百三高地
に攻撃目標を変えるぞ!」と
伊地知を諌めれば
済んだはずです。

しかしながら、
乃木希典は伊地知の主張を
そのまま認め続けます。

果たして
第3次攻撃はどうなるのか?
またまた多くの
犠牲者がでるのでしょうか?

ここにきて大本営では
「参謀・伊地知が頑なで、
二百三高地への作戦変更を
進言しても受け入れないのは
乃木がボンクラだからだ。」

「もう2回も失敗している。
これ以上の犠牲はごめんだ。
乃木司令を更迭せよ!」
という意見が大勢を占めます。


【6.乃木を替えてはならん!!】

この乃木更迭論に対して
「乃木を替えてはならん!」と
ストップをかけた人物がいました。

明治天皇でした。

明治天皇は御前会議で言います。
「乃木を替えて一番喜ぶのは誰か?
敵将ステッセル(旅順要塞司令官)
ではないのか?」と擁護します。

映画「二百三高地」で
このシーンで明治天皇から
発せられた威厳あるお言葉が
メチャメチャ格好よかったと
記憶に残っております。

実際に、明治天皇は
乃木希典の人間性を
高く評価しており、
かつ熟知していました。

乃木を更迭すれば、
彼は責任を負って
自決してしまうだろうと。

明治天皇が更迭論を一蹴し、
自身を擁護してくれた御恩を
乃木希典は生涯忘れませんでした。

同時に、多くの兵を
旅順で死なせた責任を
乃木は痛感していました。

ゆえに、
明治天皇が崩御されると
乃木希典は妻と一緒に
自宅で自決し、
殉死するのです。
本当にあった史実です。

明治時代、国や組織を
背負って立つ男が
責任を取る時は、
もしくは
天皇陛下の御恩に
報いる時には
いざとなれば
江戸時代の武士と同じく
腹を切って自決する気概が
あったということでしょう。

現代の我々日本人男性に
ここまでの気概を持った人は
私も含め殆どいないでしょう。


【7.トンネルを掘って要塞内部を攻めよ!】

話を戻しましょう。

世界一の防御力を誇った
旅順要塞への3回目の総攻撃を
1905年11月26日に
第三軍は開始します。

バルチック艦隊は1か月以上前に
ロシアのリバウ港を
出発しており日本に接近中です。

旅順攻略を急がねばなりません。

乃木司令と伊地知参謀も
さすがに2回も攻撃に失敗して
いたことから、
今度は違った策を用意します。

 「坑道を掘って敵要塞を内部から
爆破・突入、制圧する」作戦です。

かつて、
ペルーの日本大使公邸に
多くの日本人の人質をとって
4か月間も立てこもる
反政府ゲリラに対して
当時のフジモリ大統領が
1997年にとった
掃討及び人質救出作戦を
TVでみた方は
記憶していると思います。
それと似たイメージの作戦です。

つまり、
トンネルを敵に気付かれないよう
掘って、密かに近づいて爆破。
そこから要塞内部に突入・制圧
する作戦を実行します。

では、どうだったか?

密かに坑道を掘り進み、
ダイナマイトを設置。 爆破します。
敵要塞の外堀の
一部を破壊できました。

爆破後に、日本軍は
二十八サンチ榴弾砲の
援護射撃も行った上で
白襷(しろたすき)隊を
突入させます。

白襷隊とは
胸の前に白い襷を
軍服の上から
ばってん状に結んで
決死の突撃を行う
精鋭部隊でした。

白襷は何のためにかけたか?

それは、夜襲をかけたり、
トンネル内部や要塞内部の
暗い場所での白兵戦を想定し、
ぱっと見て白襷が見えれば
味方だとわかるようにして
同士撃ちしないようにする
ためのものでした。

では、
トンネルを掘り進んで爆破し、
突入した結果はどうだったか?

ロシア側の堡塁のべトンが
想像以上に分厚く
爆破は不完全でした。

よって、要塞内部の本丸に
雪崩を撃って歩兵が突入し、
一気呵成に制圧することは
出来ませんでした。

それでも、
外堀の一部を破壊できたことから
過去二回の攻撃では
超えられなかった
要塞の最初の障壁を
白襷隊は突破します。

しかしながら、
要塞内部には
2重3重もの障壁が
まだ至るところに
待ち構えてました。

そこに突撃すると、
地雷が地面から炸裂し、
さらには機関砲から
ダムダム弾の雨・嵐が、
またまた降り注ぎました。

それでもひるむことなく
突撃は続きました。

白襷隊の勇猛果敢な姿に
ロシア軍は恐怖し、
後には絶賛します。

しかし、
要塞の防御力は高く
白襷隊は残念ながら
壊滅してしまいます。

この報告を受けて乃木希典も
「坑道作戦もうまくいかない」
「要塞正面突破はもう無理だ」
と、さすがに観念します。

三回もの総攻撃で
どれだけ将兵を失ったことか・・・。

伊地知参謀の頑なプライドと、
代案採用を見送った
乃木司令の判断ミスが
損害を拡大させたのは
間違いありません。


【8.旅順での死傷者、14万人!】

ここに至り、翌日から
ようやく「二百三高地」に
主目標を変更し突撃させます。

しかし、手薄とはいえ
ここにもロシアの機関砲は
配備されており
日本軍を襲います。

塹壕には死傷者があふれ返り
壕内を進むことすら厳しい
地獄絵図のような状態になります。

血で血で洗う苦難の果てに
第3次攻撃を開始して
4日目の
1904年11月30日の夜、
一部の部隊が
二百三高地占領に成功します。

やった!
遂に二百三高地をとった!
これで勝った。
第三軍司令部は大本営に
「占領確実」を打電します。

しかし、これで勝てるほど
甘くありませんでした。

え? 史実では、
二百三高地を占領したことで
日本は旅順要塞を
陥落させたんでしょ?と
思った方は多いでしょう。

11月30日に
二百三高地を占領できたのは
機関砲の雨・嵐を命からがら
潜り抜け、運良く生き残った
数十名のわずかな手勢でした。

ロシア軍は
二百三高地山頂に
日本兵が入ったことを知ると
ただちに反撃を行い、
12月1日の未明、あっさり
山頂を奪還してしまいました。
(山頂の日本軍は全滅です。)

ここに第三次総攻撃も
失敗に終わりました。

映画「二百三高地」では
この場面でもバックで
さだまさしさんの
「防人の詩」の悲しい
メロディーが再び流れます。

第三次旅順総攻撃での
日本軍の死傷者は
旅順の戦闘中最悪の
72,000名にも達しました。

第一次で62,000名、
第二次で 3,800名の
死傷者です。

旅順攻防戦だけで
何と合計14万人もの
犠牲者がでたのです。

映画「二百三高地」では
「旅順での戦いによって
うみだされた未亡人の数は
10万人を超えた」と
ナレーションが入りました。

母国日本では、
戦死した将兵の
合同葬儀に遺骨を持って
泣きながら葬送・参列する
未亡人や家族らの列も
映像で流れました。

もう、旅順攻略は無理なのか?

ロシア軍の強さと
近代という時代の恐ろしさを
日本人は血で贖い、
嫌というほど思い知らされた・・・。
そんなシーンでした。

この第三次総攻撃では
二百三高地を奪還された際、
乃木希典の次男・保典も戦死。

乃木司令は南山の戦いでも
長男を戦死で失ったので、
息子2名も
亡くしたことになります。

暗く沈んだムードが
第三軍の司令部を覆いました。

ああ、3回攻撃して
14万もの兵が死傷しても
なお、旅順要塞は落ちない。

次の攻撃で失敗すれば
日本軍全体の戦力や士気に
深刻な悪影響を与え、
非常に危険な事態になる。

本来なら、第三軍の最高責任者
乃木司令は更迭のはずです。
しかしながら、更迭をしようにも
明治天皇のご意向でできない。

そこで、ある人物が急遽
満身創痍の第三軍に派遣されます。

その人こそ、お通夜のように
沈んでいる第三軍に喝を入れ
旅順を攻略する救世主です。

【9.名参謀・児玉源太郎が吠える!】

満州総司令官・大山巌から
全権を委任された
参謀・児玉源太郎が
旅順へ急遽、派遣されます。

陸軍本隊(第一、二、四軍)は、
遼陽での
ロシア陸軍本隊との戦い
(ロシア軍16万を劣勢だった
日本軍が12万5千で破った)
に勝利し、
次なる陸上決戦の準備中でした。
そこから児玉は派遣されました。

名目上は「相談役」ですが、
乃木から指揮権を一時預かり
(事実上は権限の剥奪ですが)
第三軍の指揮を執ることが
目的でした。

児玉は到着すると現地を視察。
情勢を把握すると
乃木から指揮権を預かって
ただちに2つの命令を出します。

「まず一つ。二百三高地の占領を
確保するため、すみやかに重砲隊
(二十八サンチ榴弾砲の部隊)を
移動して、これを高崎山に陣地変換し、
もって敵の回復攻撃を顧慮し、
椅子山の制圧に任ぜしむ。」

第三次総攻撃で
一部の二十八サンチ砲を
二百三高地攻撃に回しました。

しかし、それでは足りない。
すべての重砲をここに集中せよ、
と命じたのです。

これは素人の私でもわかります。
敵の手薄なところに
自軍の一番強い火力を
集中させる、との考えですね。

児玉源太郎が
名参謀たる所以(ゆえん)は
実は2つ目の指示でした。

その内容は軍事の素人では
なかなか思いつかないものです。

「二つ。二百三高地占領の上は、
二十八サンチ榴弾砲をもって
一昼夜ごと、15分おきに
連続砲撃(援護射撃)を加え、
敵の逆襲に備えるべし。」

ところが、
第三軍の伊地知参謀将兵らは、
二つ目の命令に
こぞって反対しました。

なぜでしょうか?

なぜなら、
ロシア兵を追い払うための
二十八サンチ砲の援護射撃で
山頂で占領している味方が
自軍の撃った砲弾の巻き添えを
食う可能性があったからです。

ドラマ・坂の上の雲では
「陛下の赤子(せきし=天皇陛下
から預かった兵)を、陛下の砲で
撃つことはできません!」と
第三軍の参謀や将校たちが
猛反対するシーンがあります。

児玉源太郎は、
そうした反対を一蹴します。

ドラマでは
高橋英樹演じる児玉がこう述べます。

「陛下の赤子を、今日まで
無駄に死なせてきたのは誰か?
一体何人死んだんだ(涙)!」
「援護射撃によって、味方の兵が
一部犠牲になるだろう。しかし、
これまでに出した犠牲と比べれば
はるかに軽微じゃ!」
「確かに、一度は山頂にとりついた。
しかし、すぐに逆襲され奪還された。」
「その敵の逆襲を防ぐのだ。
それには一大巨砲
(二十八サンチ榴弾砲)
による援護射撃しかない!」と。

つまり、
二百三高地に戦力を集中し
まず、ここを占領します。

占領後は15分おきに、
二百三高地をとった
後方から大砲で援護射撃して
(山頂付近や周辺目がけ撃つ)
ロシア軍の逆襲を防ぎ、
山頂占領を維持します。

ここから先は秋山真之らが
考えていた作戦と同じです。
つまり、
山頂に着いた味方の観測隊が、
敵旅順艦隊の位置や距離を
二十ハサンチ砲台に知らせます。

山越えで港に向け
二十八サンチ砲で攻撃を行って
全て撃沈するという作戦です。

児玉は旅順にきてすぐに
ここまで立案するところが
さすが名参謀です。

第一次総攻撃から、
最初からこうした迂回作戦を
行えば、14万もの犠牲は
出さなくて済んだはずでした。

二十八サンチ砲の到着は
第二次総攻撃からでしたが、
旅順の前に戦った
南山の攻防戦を参考にすれば
早くから投入できたはずでした。

NHKドラマ「坂の上の雲」では、
その判断ミスがなければ、と
遠回しに匂わせる
シーンがありました。

旭川第7師団の師団長・大迫尚敏と、
児玉源太郎が、
二百三高地を眺めながら
対話するシーンです。

児玉「大迫さん、
北海道の兵は強いらしいな。」
大迫「はい。さようです。
強うございました。1万5千の兵が、
千人になってしまいました。」
児玉「・・・・」

実際に第7師団は、
第3次攻撃で
二百三高地攻略に
日本から新たに
派遣されましたが
ロシアの機関砲の犠牲
になってしまったのでした。


【10.失敗が許されない第4次総攻撃】

急がねばなりません。

同盟国のイギリスが
アフリカの植民地への
バルチック艦隊寄港を拒み
様々な妨害工作をして
くれているとはいえ、
第四次総攻撃の頃には
バルチック艦隊は
アフリカ南端を回って
マダガスカル島に到着し、
着実に日本に近づいていました。

旅順攻略と港内の
旅順艦隊を一刻も早く
撃滅する必要に
迫られていたのです。

目標とした二百三高地は
旅順要塞の正面と比較すると
保塁の壁もさほど厚くなく、
ロシア側の装備も手薄でした。

参謀・児玉源太郎はそこに
第4次総攻撃をしかけます。
 
二十八サンチ榴弾砲を
集中したところ
効果は絶大でした。

映画では、ロシアの
砲台や機関砲だけでなく
自軍の歩兵が身を潜めている
塹壕のすぐそばにも砲弾が
着弾するシーンが登場します。


味方の歩兵部隊から
後方の砲台に向け
「俺たちまで撃つな!」
と、手で合図しますが、
援護射撃は止みません。

しかし、破壊力の大きな
榴弾砲の援護射撃があったからこそ、
今までさんざん苦しめられた
敵の機関砲や歩兵、
砲台やトーチカなどを
どんどん破壊しつつ
前進できたのです。

こうなると、
山頂めがけ歩兵が突撃しても
機関砲で撃たれなくなります。

山頂付近で生き残っている
ロシア兵との白兵戦の末、
2度目の
二百三高地占領に成功します。

しかし、まだ安心出来ません。

次に、
ロシア軍の反撃を排除すべく
占領している
山頂周囲をめがけ
二十八サンチ榴弾砲で
15分おきに援護射撃を継続します。

これで山頂をようやく
安定して確保できたのです。

さて、次にどうやって
旅順艦隊を叩きつぶしたか?

【11.遂に旅順陥落】

山頂から電話線が引かれ
麓の司令部と、
山頂に登った観測隊が
電話で通信が
できるようになりました。

ここからはNHKドラマ
「坂の上の雲」のシーンを引用します。

児玉「そこから旅順港は見えるか?」

観測隊の将校が答えます。
「見えます!丸見えであります!
各艦一望のうちに
おさめることができます!」

これでやっと、
最終目的である
旅順艦隊撃沈が可能になりました。

 山頂の兵士らは号泣しました。
そして「万歳!」と叫びました。

旅順陥落が決まった瞬間でした。

しかし、ここまでくるのに
14万人もの死傷者が・・・
どれだけ悲惨で、
苦しい戦いだったかは
その涙が物語っていました。

小説・坂の上の雲では
児玉が次に
「二十八サンチ榴弾砲をもって、
二百三高地の山越えに、
旅順港内の敵艦を撃て!」
と命じたとあります。

旅順港内にむけ
一斉射撃が始まり、
山頂の観測隊が、着弾点と
敵艦までの距離と方向を
麓の砲台に伝えます。

角度と方向が修正され、
二十八サンチ砲を再発射します。
今度は敵艦に命中します!

こうして、ロシア旅順艦隊は
次々に被弾し沈没して行きます。

ここにやっと、
バルチック艦隊到着前に
旅順艦隊を撃滅するという
悲願を日本軍は達成します。

児玉参謀が到着して
何とわずか4日で
旅順は落ちたのです。
(1905年1月1日、元旦)

これで日本海軍は安心して
バルチック艦隊との決戦に
集中できるようになりました。

ちなみに、
児玉源太郎が優れた
天才参謀だったかを
示すエピソードが残っています。

日露が開戦した際、
ヨーロッパの主な
正式な研究機関が
どちらの国が勝つか
予測しました。

すべての機関が
ロシアの勝利を掲げ
日本が敗北すると
予想したのですが、唯一
ドイツ軍参謀本部だけが
日本の勝利を予想しました。

新聞記者たちは
ドイツ軍参謀本部に
殺到して取材します。
「日本が勝つ可能性があるのは
どういうわけですか?」

参謀本部の切れ者
クレメンス・メッケルが回答します。

「日本に児玉源太郎という
人物がいる限り、
必ず日本が勝利する。」と。

新聞記者は驚きます。
「馬鹿なことを。日本のような
弱小国が勝てるはずがないでしょ。
ナポレオンを打ち破った
世界最強のロシア陸軍を
弱小日本がどうやって
負かすというんですか?」

メッケルは繰り返します。
「だから、児玉源太郎がいると
いっているじゃないか。」

新聞記者は食い下がります。
「一体、児玉源太郎というのは
何者ですか?」

メッケルはだた一言
「彼は天才である」と答えました。

なぜ、メッケルは
ここまで断言できたのでしょうか?

実は、
メッケルは日本に招かれ
陸軍大学の教官に任じられ、
ドイツ式の戦術の伝授と
参謀将校養成を行いました。

彼が日本滞在中に、
日本の将兵候補として
最も才能がある学生と
見込まれたのが児玉源太郎でした。

メッケルは早くから
児玉の才能を見抜いていた
と言われています。

確かに、
もしも児玉がいなければ
遼陽の会戦、
旅順要塞攻略戦、
次の奉天の会戦で
日本は勝てなかったと思います。

児玉という天才がいたからこそ、
大国ロシアに勝利できた
といえる部分が
歴史にはあるのです。


【12.敵司令・ステッセルを許した乃木将軍】

旅順艦隊全滅を知った
要塞内のロシア軍は、
守るべきものがなくなった
と判断し、降伏しました。

旅順要塞の司令ステッセルは、
第三軍司令・乃木希典と
水師営で会見することとします。

やっと旅順を落とした
日本軍ではありましたが、
ロシア軍の最新の機関砲や
地雷等で14万人もの
死傷者をだしました。

その敵が降伏してきた以上、
今までの恨みをぶつちまけても
何らおかしくありません。

では、どう対処したか?

戦前の文部省唱歌で
旅順で死闘を繰り広げた
日露の両雄が会見した時の
情景を詠った
「水師営の会見」があります。

以下、歌詞を紹介します。

 「旅順開城 約なりて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ水師営」

 「昨日の敵は今日の友
語る言葉も打ち解けて
我は讃えつ彼の防備
彼は讃えつ我が武勇」

乃木希典司令は
10万を超える兵の命や
息子二人の命まで奪われた
憎き敵将ステッセルに対し
怒りや恨みはぶつけず、
礼儀正しく穏やかに接しました。

この歌は
キリスト教で言うなら
「許す愛」を実践した姿が
いかに立派だったかを
賞賛する歌でした。

ちなみにこの唱歌は
国威を発揚するために
無理矢理、政府が作った
変な歌ではありません。

乃木のとった態度は
当時の全世界のマスコミから
素晴らしい「武士道精神」と
賞賛、配信され
世界に感動を与えたのです。

どう、素晴らしかったか?
具体的に見てみましょう。

 会見は敵将ステッセルから
「会いたい」と申し出ました。

当時、敗れた敗軍の将は
会見の場では武装解除させられ
帯剣は許されませんでした。

さらに言えば、
捕虜として辱められた
待遇を受けても
最悪、命を奪われても
文句は言えませんでした。

ところが、乃木は
ステッセルに帯剣を許し、
敬意を以って接しました。

それだけではありません。
乃木の発した言葉
が素晴らしかったのです。

「我々は互いの
君国のために力戦した。
しかしながら、
既に戦闘行為は止み、
今日このようにして
閣下とここで会見
できることを、
予は最大の喜びとする。」

これに敵将ステッセルも
立派に以下のように返します。

 「予もまた祖国のために、
旅順要塞を防衛した。
しかしながら、
既に開城を決した今日、
閣下とここで
会見できる機会を
得たることは、
予の深く光栄と
するところである。」

ステッセルはさらに、
二十八サンチ砲の威力と
第三次総攻撃で
坑道戦までやり抜き、
突撃してきた日本軍の
勇敢さ(特に白襷隊)
を称賛したと言います。

 会見終了後、ステッセルは
自軍の幕僚らにこう語ります。

 「自分の半生において会った
人物の中で、乃木将軍ほど
感激を与えられた人はない。」

英雄は英雄を知る、という
諺がありますが、
まさにそんな場面だった
のかも知れませんね。

ちなみに、
この会見で示した
乃木希典の態度を
欧米のマスコミのみならず
当時の全世界のマスコミが
絶賛し、配信されます。

欧米人から見た場合、
黄色人種の日本軍が、
14万人も死傷させられても
敵国の白人ロシアに
キリスト教で言う
「許す愛」を示したことに
驚嘆したと推測します。

両軍の将が一緒に
カメラに写っていることからも、
それが伝わってきます。

この会見の後ステッセルは、
ロシアに帰国が許されますが
軍法会議にかけられます。

ロシア帝国の軍法会議は
降伏したステッセルに
冷たく「死刑」を宣告します。

理由は、
旅順を開城した際、
要塞内部にはまだ
兵員や砲弾、食料も
十分あったので
降伏せずまだ戦えたはずだ、
ステッセルは臆病であった、
と判断されたからです。

乃木希典はそれを知って、
助命嘆願できないか、と
参謀の一人、津野田是重に
相談します。

乃木はステッセルを
心底許していたんですね。

そこで、津野田は
ロンドン、パリ、ベルリンの
大手新聞社に「ステッセルの
旅順開城の判断はやむを得ない
もので、正しかった。」との
論文を投稿、世界に発信しました。

その論文が功を奏したのか、
ステッセルは
死刑だけは免れました。

【13.乃木将軍への評価】

乃木希典司令は
軍略面では14万もの犠牲を
出してしまいました。

自力ではなく、
参謀の児玉源太郎の
知恵を借りて
やっと旅順を落としたことから、
有能な軍人であったとは
私は言えないと思います。  

しかし、
不屈の精神で
世界最強の要塞を
攻撃開始から6か月目で
落としたこと、
さらには水師営で見せた
素晴らしい武士道精神に
溢れた対応と姿勢が
全世界のマスコミによって
紹介、配信されました。

結果、乃木希典の名声は
世界中に広がるのです。

 
あの明治天皇が、
高く評価していた
乃木の人格や態度に
全世界が感銘したのです。  

だからこそ、
ロシアの圧迫を受けて苦しむ
オスマン・トルコ帝国等の
アジアの国では当時
生まれた子供に「ノギ」
(後には「トーゴー」も)
という名前をつけることが
流行となるのです。

ちなみに、乃木希典は
漢詩の名人でもありました。  

二人の息子を戦場で失った
悲しみをにじませる詩や
多くの兵士を
死なせた責任を感じ
その魂を弔う漢詩を
いくつか残しました。

いずれの詩も
こうした戦争の背景や
経緯を理解すれば
涙なしには読めない
名作と言われます。

長くなりますので、
ここでは漢詩の紹介は
割愛致します。
 

さて、これで
主な日露戦争の戦闘で
日本は対ロシア戦
7連勝となりました。
 

内訳は
(1)仁川沖の海戦、
(2)鴨緑江の戦い、
(3)南山の戦い、
(4)黄海海戦、
(5)蔚山沖海戦、
(6)遼陽の戦い、
(7)旅順の戦い
です。
 

超大国ロシアに対して
極東の弱小新興国が
世界中の予想に反して
何と連戦連勝!
 

こうした報道が、
欧米列強による
帝国主義政策で植民地化され
苦しめられていた国や地域の、
有色人種の人々に
どれだけ勇気と希望を与えたか。
(以前、インドのネール首相の
例を挙げましたね。) 

繰り返し説明していますが
こうした日本の勝利が
後の独立運動に繋がり
地球上から植民地が消える
原動力となって
世界を変えていくのです。


【14.第三軍は、奉天へ向かう】

日本遠征に向かっている
バルチック艦隊にも
旅順陥落、及び
艦隊が全滅したとの知らせが
電報で届きました。
 
旅順艦隊と合流して
一気に日本軍の制海権を
奪い返すという
当初の目論見が崩れたため、
バルチック艦隊乗組員の
士気はガクンと下がります。

 

これに対して、
日本海軍は安心して
バルチック艦隊との決戦に
集中できるようになりました。

演習にも気合が入りますし、
(対馬や鳥取砂丘で猛訓練し
砲弾の命中率が3%から
6%と倍になったと以前
説明しましたよね。)
士気も大いに高まります。

陸軍も
第三軍を次の満州での
陸上決戦に合流させ、
増援できるようになりました。
 

敵将クロパトキン率いる
陸軍本隊は
遼陽の戦いで敗れた後
奉天に撤退、
立て籠もっていました。

 

その奉天では
第三軍以外の
第一、二、四軍が
相対峙してました。
 
よって、第三軍をそこに
移動させることになりました。
 

旅順から奉天までは
約380キロありましたが
第三軍は極寒の中、
主は徒歩で行軍します。
40日かけて到着、合流します。
1905年2月半ばでした。
 

380キロ÷40日=9.5キロ/日
あれ?
一日あたりたった
10キロ弱しか移動してないの?
と思うかもしれません。
 

なぜ、
行軍のスピードがこんなに遅かったか?
 
第三軍は旅順の死闘を経て
満身創痍・疲労困憊状態です。

そんな状態で次の戦場に
向かわねばなりませんでした。
 
また、
二月の満州は氷点下の酷寒です。
吹雪も舞う中、
大きな二十八サンチ榴弾砲や

重たい砲弾や各種資材を
歩兵たちの手で移動させねばならず、

(当時は大型トラックや大きな運搬
機器はまだありませんでしたから。)
苦労していたからです。

第三軍が合流した結果、
日本陸軍の総兵力は
合計25万となります。
国を挙げての大軍勢です。

一方のロシア陸軍は?
本隊の総兵力は37万!

え?12万も多いの?
そうです。
兵力数ではロシアが
日本軍を圧倒してました。

第三軍を加えても
まだ劣勢な日本軍。

しかし、その合流を待って
戦いを仕掛けることとなります。
味方の兵力が足らないからです。
 
旅順で14万もの
死傷者をだしていなければ、
25万にその兵力が加わるため、
ロシア軍本隊とほぼ同数の
39万人の戦力になるはずでした。
 
そう考えると、
旅順で失った戦力は
あまりに大きかったのです。

劣勢の日本は勝てるのか?
いや、
勝てるのか?ではなく
勝たねばなりませんでした。
 

もし負ければ、
ここまで天の助けも含めて
連勝(実は、この奉天での
戦いの直前に、黒溝台でも
日露両軍は戦います。
奇襲を受けた日本軍が
かろうじてロシア陸軍を駆逐。
この勝利を入れると8連勝!)
してきたことも
全て水の泡となります。
 

なぜなら、
本隊同士の決戦で負けると
満州地域はもちろん、
朝鮮や中国も
全てロシア軍に
再び取られてしまい、
結果、日本は滅亡するからです。

満州軍総司令官の大山巌は、
「本作戦は今戦役の関ヶ原と
言うも不可ならん!」と
表現し、決意を示します。

 

一方、
数の上では優勢なロシア軍。
ちょうどこの頃、
シベリア鉄道が全線開通。

  
近いうちに ロシア本国の
首都サンクトペテルブルクから
満州や極東にさらなる増援が
鉄道で運ばれてくる
見こみとなりました。

まずい。

ぐずぐずしていると
その増援部隊が奉天に
やってきて、ロシア軍は
さらに強大になります。
 
国力に余力なく、
劣勢な日本軍は
短期決戦で
奉天のロシア軍本隊を
叩かねばなりません。  

疲労困憊の第三軍が
旅順から合流して
わずか二週間後の
1905年3月1日から
日本軍からロシア軍に
攻撃を仕掛け
両国陸軍が激突します。

 

ちなみに、
旅順を落とすのに半年かかりました。

次に40日かけて奉天に
移動しているので
兵はへとへとてす。
到着して二週間で
また戦闘というのは
第三軍には殆ど休みなしと
申していいと思います。

これが、
歴史上有名な奉天の戦いです。
両軍合わせると60万超。
(後方の補給部隊をあわせると
両軍あわせ70万~80万)
 

世界史で見てもここまで
大規模な会戦は少なく
世界中のマスコミは
満州での決戦に注目していました。
 

続きは別の記事で掲載しましょう。
本日は以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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